私の昭和記念公園

あゆみ - 散歩中に、意外な出来事に出合いませんでしたか?

 このホームページの「歩み」は、一昨年の春、私の体調不良(2008年・春、立川のK病院呼吸器内科に入院)から、中途半端な状態のままに開かれて始まりました。それを精巧な技術とデザイン力で支えてくれたのが「(株)ニュート」(中野区)で、心から感謝しています。以後、春・秋を基本に更新し、今秋、6度目の更新を迎え、漸く軌道にのった感があります。まだまだ覚束ない足どりですが……。
 一方、誕生して四半世紀を経た国営昭和記念公園は、まさに成熟期を迎えています。ここでは1983年の開園から現在に至る「歩み」を振り返ってみます。


はじめに

 財団のホームページの中に、昭和記念公園の「プロフィール」の紹介があり、「大正10年陸軍飛行場設置を決定」から「平成19年10月13日こもれびの里オープン」までの八十数年の骨子が年次を追ってまとめられています。特に、国営昭和記念公園建設の事業案が承認・実現するまでの政治的・行政的な積み重ねが記録されている点は興味深いものがあります。何事も一朝一夕では成らない足跡が感じられてならないからです。

 ここでは市民的・大衆的な性格を持つ「公園」が、マスメディアによってどのように報道され培われてきたか?便宜的に愛読紙「東京新聞」(東京版・多摩版)のバックナンバーから該当記事を拾い集めて、「私たちの昭和記念公園」の成長を、そして現在、年間349万人(2007年度)の人々を迎えるに至った道を辿っていきたいと思います。この作業に、何か見えてくるものがあるかどうか。折しも今年(2008年)は開園25周年を迎えます。振り返ってみるのも意味のあることかもしれません。

 25年分の紙面をあたってみると夥しい公園に関する報道件数を確かめることが出来ます。私の手元には、目にとまった記事の全ての一覧表、記事の「コピイ」を貼付したスクラップ帳・4冊が残されています。ここに、その全てを紹介しながら進めると煩雑になりますので、私の独断と偏見から、全体を次の五つの時間に区分し、その間の主要な報道記事をのみ掲げて、そうでないものは割愛しながら、それぞれの時期を展望してみたいと思います。

I. 胎動期 1975~1979
II. 誕生期 1980~1984
III. 生育期 1985~1998
IV. 発展期 1999~2007
V. 成熟期に向けて 2008から

[I] 胎動期

 まだ「昭和記念公園」の姿は誰にも見えません。ただ人々の頭の中にイメージとして存在し、形作られ始めたのです。この時期が便宜的に「胎動期」と名付けた5年間です。この時期については新聞報道に当たっていません。財団のホームページの「プロフィール・経緯」をそのまま記録しておきます。

1975   総理府、天皇御在位五十年記念事業を検討
1676 11 5 昭和記念公園(仮称)建設を閣議了承
1977 11 30 立川基地全面返還
1978 03 16 建設大臣私的諮問機関として昭和記念公園(仮称)基本問題懇談会設置
1979 03 16 昭和記念公園調査事務所発足
1979 07 31 基本問題懇談会、基本理念および基本方針を建設大臣に報告
1979 11 19 国有財産中央審議会、立川基地跡地利用計画の大綱を答申
1979 11 30 国営昭和記念公園の設置を閣議決定
1979 12 10 国営昭和記念公園工事事務所に改組

 この「経緯」は「大正10年陸軍飛行場設置を決定」から書き起こされています。この飛行場は終戦までの二十数年にわたって機能していました。郷土史家の三田鶴吉先生の「立川飛行場物語上・中・下」で、たくさんの資料写真や証言とともにその頃の様子に触れることが出来ます。生粋の「立川っ子」であった義父は生前「小川吐水」という名で錦心流「琵琶」の師範もしていた粋な明治人であったが、宴席では時々、古き時代の世相を反映した「立川小唄」などを披露してくれたこともありました。そこには私たちの知らない「軍都・立川」の面影がありました。何度か義父の名調子を耳にしている私にも、おぼろげながら歌詞やメロディーの断片が耳に残っています。末娘の妻は、歌詞さえあれば、さすがに歌うことも出来るようです。立川市の中央図書館の冊子に「立川小唄」を目にしたので、記録しておきました。全歌詞二十七章、その中の一、二を抜萃してみました。隔世の感があり、古き多摩地方の面影が想像されます。

東京ばかりか 浅川青梅 五日市から 一と走り
汽車だ電車だ 川崎からも 空の都よ 立川よ
わたしゃ飛行機 風まかせ お前のでようで 宙返り
オヤクルリトセー ションガイナ
渡れ日野橋 お茶屋が見える 浮いて静かな 屋形船
眺めなつかし 秩父や御嶽 空の都よ 立川よ
わたしゃ飛行機 風まかせ お前のでようで 宙返り
オヤクルリトセー ションガイナ

(大關五郎氏作歌)

 今は亡き義父の声が、耳元に蘇ってきます……。

 西国立の懐石料理「無門庵」をご存知の方も多いでしょう。最近は限定格安ランチでも人気を博していますが、そのホームページの中には、当時「旅館」であった無門庵の捉えた歴史の一齣が記されています。

 『太平洋戦争が始まり、飛行場などを抱える軍都・立川の重要性が増すとともに無門庵は陸軍将校の専用旅館として隆盛』やがて……
  『戦局は悪化をたどり、終戦近くなると無門庵の客は、立川飛行場からの出撃命令を待つ少年特攻隊兵にとってかわられた。』

……続いて宿での少年兵たちの様子も語られています。無門庵の自家醸造、立川の地ビールも「カミカゼ」と命名され、記念公園内の売店にも置かれていました。私も贈り物などに、よく利用しています。

 戦後、「米軍が旧陸軍施設を接収」。広大な米軍立川基地として、街は「基地の街」「騒音の町」として変貌していきました。町中には横文字の看板が立ち並び、学校の窓なども二重構造の防音化が進みました。私の少年時代には、飛行機好きがいて、低空で滑走路に着陸体勢に入る機影を見て、「あれはグラマンだ」とか「キャンベラだ」とか言って得意顔の仲間もいました。仲間うちで、「軍事将棋」などで遊んだ記憶もあります。そんな時代、基地の北の町・砂川では米軍の滑走路拡張計画にともなう土地の接収に対して「砂川町基地拡張反対同盟」を結成。測量をめぐって警官隊と衝突する所謂「砂川闘争」が繰り返されていました。反対同盟の行動隊長だった青木市五郎さん(1985年没)が仲間の「元気を奮い立たせようとしたら頭に浮かんだ」という言葉――『土地に杭は打たれても、心には打たれない』――は、今も人々の心の底に残っています。「砂川闘争」と言えば闘争開始から半世紀近い今年2008年、事実関係を知る上で貴重な資料の発見が相次いで新聞紙上に取り上げられ、研究者の検証が待たれています。一つは「砂川闘争未整理の資料」(讀賣・2008.5.3)で、立川市中央図書館に眠っていました。もう一つは東京地裁の「米軍駐留は違憲」、砂川事件被告を無罪とした判決に対して、駐日米大使が、「最高裁の長官と接触したり、外相に速やかな解決を求めたりしていたことを示す記録」が「米国立公文書館」に残されていることが明らかになったことでした。

 砂川闘争の間、「無門庵」は、その報道陣の宿として賑わったそうです。そんなふうに「幾時代かがありまして」、「立川基地の全面返還」(1977年11月)が実現したのです。時の立川市長・岸中士良さんは返還に立ち会い、更には「国営昭和記念公園の誘致に尽力」されたことが、氏の死亡記事(讀賣・1994年5月13日)にも触れられ、その成果が評価されています。氏は市内で医院を開設する外科医で、昭和50年から62年の三期にわたって立川市長を務められました。昭和記念公園とともに岸中市長の名を記憶にとどめておきたいと思います。

 こうして「軍都・立川」の古着を脱ぎ捨て、新しい時代の、新しい理念に基づいた「米軍基地跡地利用」が計画され、やがて産声を上げる「昭和記念公園」の胎動が始まったのです。

[II] 誕生期

 いよいよ私たちの前に「昭和記念公園」が、その姿を現します。未知の可能 性を秘めた人間の誕生と同じように、この公園もどのような人と、どのように 関わりながら公園としてのキャラクター・独自性を形成していくのでしょう か?生まれたばかりのこの時期は「誕生期」として、財団の「経緯」を記録し ながら『東京新聞・多摩版』の見出しを織り込んで表示してみていきます。

1980 2   大蔵省、公園予定地の使用を承認、公園建設工事に着手
1981 11 5 都市計画決定
1982 2 30 建設大臣、公園区域の予定地の告示
1982 4 16 建設大臣、都市計画事業承認
1983 5 16 ◎『昭和記念公園を視察
内海建設相「思ったより工事進む」』
1983 9 31 国有地管換
1983 9 19 ◎『昭和記念公園は有料で』(ニュースメモ)
1983 10 30 ◎『高まる「祝賀ムード」と「緊張」
あす昭和公園開園 記念入場券など発売へ
1983 10 10 ◎『昭和公園で多彩な催し』(ニュースメモ)
第一期開園、昭和天皇御臨席のもとに開園式典
(みんなの原っぱ、花木園、ふれあい広場)70haを開園
1983 10 10 ◎『あふれるお祝いムード 広がる笑顔 一万人が入園小早川君、平沢さんも祝辞』
1983 12 10 ◎『15万人が入園 マナー立派な子供たち』

 (◎印は「東京新聞・多摩版」の記事) 

 1980年「工事に着手」して4年、1983年5月、内海建設相が工事の進捗状 況を視察する記事が写真入りで報道されています。記事の末尾には「完成は六十四年春の予定」とあるのも偶然にも昭和天皇の崩御される年と符合し、奇妙な思いを抱かされます。1980年の10月26日、昭和天皇御臨席のもと第一期開園式典が行われました。前後2日間にわたって「多摩版」の紙面を大きく割いて報道しています。

立川駅北口広場に立てられた祝賀塔

 写真は立川駅北口広場に建てられた祝賀塔。「東京新聞」に掲載されたものです。駅前の風景も現在とはだいぶ異なります。バスターミナルの背後のビルはルミネではなく、Willでした。
 記事の見出しには「祝賀ムード」と「緊張」とありますが、記事には「過激派セクトが開園阻止を叫んでデモを予定」したり、立川市職組も「開園に反対して」「始業から1時間の時限スト」を行ったことも報道されています。とにもかくにも昭和記念公園は産声をあげたわけです。入園料は大人350円、小人80円、五歳以下無料と決まったようです。しかし「国立なのに…」という割高感は一般的にあったようです。

 広大な公園敷地のほんの一部、三分の一程度の開園ですが、この世に「国営 昭和記念公園」が誕生したのです。しかし四季折々に美しく、多くの人を招き寄せる現在の公園の輝きとは似るべくもない姿であったろうと思われます。

 開園式典翌日の紙面には、カナールの賑やかな人混みを俯瞰した大きな写真 が掲載されています。すでにカナールのシンボル・アートとも言うべき「明日の空へ」(前年1982年購入)は、カナールを見下ろし、大空を仰いでいます。この時期、公園内の唯一の彫刻作品です。

 開園二ヶ月後の十二月二十六日の記事には興味深いものがあります。それは現在にもつながる昭和記念公園での楽しみ方の原型が既にあるということです。

  1. 「保育園や幼稚園児の団体でにぎわう」点。
    住まいの近隣には喪われてしまった広々とした自然の中で、子どもたちが輪になってお弁当を広げ、食後には原っぱを駆けめぐる。二十五年経た今も少しも変わらない子供たちの自然との接点。
  2. 「自転車の小中学生が目立つ」点。
    この点は現在と異なる背景があるような気がします。それは子どもたちの多様な楽しみ方をおおらかに迎え入れてくれる現在と異なり、開園当初には選択肢も少なく、また町中では考えられない広く変化に富んだサイクリングロードは魅力的であったにちがいありません。その頃まだ小学生だった私の娘も、公園の思い出と言えば、「お友達と一緒のサイクリング」を思い起こしていました。

 ……こうした「誕生期」の際立つ公園の楽しみ方は、一つの原型として残っています。

 また同様に昭和記念公園に関する報道の内容的特性から、この「誕生期」の数年に今後につながっていく一つのパターンが窺えます。

  1. 「イベント情報」や「花情報」といった情報提供的な内容である点。
    受け手は、情報によって公園のイメージを膨らませ、期待し、公園を訪れるのです。当然のことながら「情報」の中身が魅力的であることが、初めて読者を公園に向かわせます。
  2. この間の「イベント」は駅伝大会などのスポーツ、小学生による鳥の巣箱かけなどの青空教室が、そして「花情報」として紙面に紹介されたのは狂い咲いた「菜の花」であり、他紙でも「タンポポ・ハナショウブ」を数える程度で、さほど新鮮味も魅力もありません。

 お馴染みの「ポピーまつり」の開催も、まだ数年(1990年より開催)、待たなくてはなりません。

 便宜的に設定した区分ですが、この「誕生期」の根拠は、

  1. 一部オープンという未成熟な空間である点、
  2. したがって訪れる人が受容する喜びも選択肢が少ない点、
  3. 更には圧倒的に子供たちが主役である点
  4. 無限に広がる夢と可能性を持っている点

 ……などが挙げられます。

[III] 生育期

 私たちの昭和記念公園がどのような空間として育まれていくか。これからの 「生育期」に俟たなくてはならないでしょう。財団の企画力と私たちの高い期 待と、更にはメディアによる魅力的な情報伝達や公園周辺のアクセスの充実な どなど、生育には様々な条件が必要になってきます。一朝一夕には成らないそ の生育期を、これも便宜的に1998年までの十数年の長期に設定して観てい きたいと思います。

1985 1 7 国営昭和記念公園ジャンボプール造り 「造波」など4種類 子供らの人気集めそう
1985 6 11 28日からオープン ジャンボプール昭和記念公園に完成
1985 6 29 :昭和記念公園
1985 12 16 スケート場大にぎわい 昭和記念公園
1987 9 12 昭和記念公園に「子供の森」建設省が計画発表 64年に一部オープン 洞窟、砂山、霧の森、夢いっぱいおとぎの国
1988 10 11 うんどう広場がオープン
1989 10 7 本格的なパターゴルフコース昭和記念公園に完成、 あすオープン(ニュースメモ)
1989 10 18 多様な文化活動の場に 国営昭和記念公園に複合施設の設置構想
1990 5 4 自然の中に巨大な遊具 昭和記念公園「子供の森」 あすオープン
1990 10 7 「ニュースポーツエリア」と「林間広場」 二施設がオープン 昭和記念公園
1991 1 6 ゆらり「虹のハンモッグ」子供の森を拡張、整備
1991 5 31 トンボ池をつくろう 2日、水生植物など植栽
1991 12 24 完成が楽しみな「子供の森」 来秋全面オープン
1992 10 8 「子供の森」オープン あす記念イベント
1993 4 9 昭和記念公園の開園10年を祝う
1994 5 24 昭和記念公園 西側に手つかずの大自然最高!バードウォッチング
1997 4 1 昭和記念公園に日本庭園 17日にオープン 多摩地区では初

 この「生育期」は十数年という長期にあたって設定したので、「東京新聞・多摩版」に散見する記事も多数、多岐にわたっています。実に245件を数えます。多くは「誕生期」に触れた二つの報道の原型が保たれています。しかし、内容的には花の種類も豊富になり、花ばかりかカワセミを主人公に「鳥情報」も加わってきました。イベントにも新しい試みがうかがえます。報道パターンは新鮮味が乏しくても、新しい魅力が読者の目を惹きます。その種の記事は上の表からは割愛しました。

 公園が活性化した「生育期」だけに意外な出来事も起こっています。例えば 「渇水が深刻化・プール開き延期」「プール開いて…昭和記念公園に要望殺到」(1987)。こんな衝撃的な報道もありました。「サギソウが盗まれた 心無い愛好者にがっくり 国営昭和記念公園 ハーブも狙われる 入園者のマナーに期待」(1997)。 この種の記事も「生育期」の特性を際立たせるために、表からは省きました。

 また、紙面を大きく割いた執筆者明記の特集記事が掲載されるのも目につくようになりました。その中の一つを、取り上げてみます。

 開園二年を経た1985年10月7日の「話題の追跡」。多摩版トップの五段抜きの大きな記事でした。「広いだけ……面白くない」という大きな見出しが衝撃的な感じさえします。「誕生期」の空間への利用者の率直な声を代弁しているものの、あまりにも評価に早計で、唐突の感を否めません。

 この記事は「入園者が予想の半数」であること、公園側が行ったアンケート調査によると「もう一つ面白くない」という声が少なくなかったこと、将来的なプランに財源の問題もあり決して明るくないこと、昨年(1985)オープンしたばかりのレインボープールも予想を大きく下回っていること……を公園関係者の声とともに紹介しています。そして最後に「多くの人に親しまれ、利用される公園になるには、多くの金と時間がかかりそうだ」と結んでいます。

 この記事に書かれていることは、表面的には至極当然のことに思えます。しかし書いている記者のスタンスに足りないものが感じられます。

  1. 現状を分析する姿勢
  2. 取材コメントの吟味
  3. 期待する自らの公園像

 などなどが曖昧なまま書かれているように思えます。更には記事中に紹介されたお二人の公園関係者のコメントが、奇妙な原則論へのこだわりがあって、公園へ描く夢に乏しい発言のような気がします。

  1. 「この公園は緑の中でのんびりとくつろいでもらうのを目的としている」ことを殊更に強調しています。過剰な原則論の振りかざしです。
  2. レインボープールを皮切りにして、今後予定されている魅力的な施設拡充の計画と、大原則の緑の空間が、どう一体化して夢の公園の実現に向かうのか?そうした思いやりに欠けたコメントであり、質問する記者の背中にいる読者の顔が見えていないようです。

 記者も、関係者の地声をそのままに受けとめて、言葉にならない人の胸の内に聴き耳をたてていそうにもありません。

 衝撃的な見出しの記事も、情報提供という他の多くの記事とは異なり、昭和記念公園のあるべき姿を再構築してみる意味では、公園側、利用者、そしてメディアも含めた三者に相応の意味があったと信じたいのですが……。

 この記事に関して、私の個人的見解を臆面もなく書きましたが、この種の特集的な記事も、生育期には幾つか散見するものの、やはり一覧表示からは割愛しました。

 「生育期」の本題に入れぬまま少々饒舌に過ぎましたが、上に恣意的に選んだ記事の一覧が、この期の区分理由であり特色を物語っています。何もなく「広いだけ」の「誕生期」から、多くのものを身につけて輝いていく「生育期」の姿がそこにあります。「東京新聞・多摩版」に報道されたスケート場―【開園3年目、1985年にレインボープールと同年の冬にオープン。都内最大規模のリンク。しかしスキーやスノーボードなど他のウインタースポーツにおされて利用客は年々減少。長野五輪後に期待をかけたが利用者増に結びつかず、廃止へ】(1997・1998「毎日新聞」の記事を要約)―・子供の森・うんどう広場・パターゴルフ・ニュースポーツエリア・林間広場・トンボの池・日本庭園……など、次々と魅力的な能力を身につけていきます。

 緑の中に点在する各種施設は、林と林をつなぎ、森の奥へ奥へと、訪れる人を誘います。こうして「緑の昭和記念公園」は生育していくのです。

 こうした「生育」に関わる記事のみを表示しましたが、何もなく、「広いだけ」の、入場料ばかり割高感を与えた「誕生期」の次に来たるべき長い時間は「生育」の時だったのです。例の記事に醸される「誕生期」の憂愁は、しばらくはじっと待つべき試練の時だったのでしょう。

 開園当初の年間利用者数は100万人を見込んでいたところ、「誕生期」の二年間の累計が97万5千人と半分に満たない数字だったことは例の「記事」でふれられていました。記事の中にときどき散見する入場者累計数を拾って整理してみます。

累計入場者数

  • △ 年間目標値到達
  • ▼ 年間目標値未到達
  • □ 平均

記事中に示された数字(開園からの累計)に従って区分けしました。

誕生期 1983 97,500 2年間 □50万
1984
生育期 1985

園内の施設が整うとともに、年を追って年間入場者数は順調に伸びている。

1986
1987
1988
1989 5,000,000 5年間 □80万
1990

九二年度に初めて年間入園者が二百万人を突破。

1991
1992 10,000,000 3年間 □170万
1993

【次の発展期の段階では、年間250万人が訪れる―と報道されています。】

1994
1995 15,000,000 3年間 □200万
1996        
1997 20,000,000 2年間 □250万

 これらの数字の変遷からも、「生育期」の意味が明らかだと思われます。入園者数は、どれだけの人が公園の魅力を感じ、楽しいひとときを味わい、次の機会に期待するかということです。公園の価値を検証する上で、やはり重要なバロメーターなのでしょう。

 しかし施設拡充ばかりが「生育期」ではないと思われます。蛇足ですが、すでにシンボル的存在の「明日の空へ」の像以外の公園内のアートは、全て「生育期」に設置されています。しかしこの間、陽を浴びて風雨にさらされながら、根をはり梢を伸ばし枝の翼を広げていく植物……「緑の公園」であるかぎり、花木・草花の生育を忘れてはならないことでしょう。そうして美しさを備え、輝きを増して、訪れる人の目を楽しませ、心を癒して、目を楽しませてくれます。「花情報」に登場する花々も豊富になりました。「ショウブまつり」(1988)、「ポピーまつり」(1990)の催しも始まり、桜・菜の花・チューリップ・向日葵・鷺草・コスモスなど公園を彩る四季の定番となって紙面に登場します。そればかりか、路傍の蕗の薹や福寿草、土筆・クロッカス・シモバシラなどや、一般にはあまり馴染みのない珍しい花々も紹介されています。花好きな人は花々を訪ね歩き、句を吟じ、植物画を描き、カメラを向けます。

 こうして生育した「緑の公園」には若者ばかりか多彩な趣味と嗜好を持った幅広い世代の方々が集まる空間に生育したのです。

[IV] 発展期

 1999年4月28日、昭和記念公園で開かれた「『みどりの愛護』のつどい」 に皇太子ご夫妻がご出席されました。お二人は「日本庭園」まで足をのばされ 午後、多摩都市モノレールを視察されています。この年を更に飛躍する次代へ の足がかりと捉えて2007年までの九年間を「発展期」として、その間の記 事から、特色づけられる見出しを表に示しました。

1999 4 29 皇太子ご夫妻が視察 多摩都市モノレール 「乗車券は記念に」
1999 5 16 障害者に優しく 昭和記念公園 目の不自由な人の「野鳥ガイド」
2000 7 26 西立川駅、自由通路に改築 バリアフリー化も 2002年夏完成予定 昭和記念公園便利に
2000 9 30 「緑・花文化の知識ゲーム」開催 昭和記念公園 きょうから2日間
2001 4 28 「砂川口」がオープン 昭和記念公園 自転車道路も全線開通
2001 9 12 歩きませんか 国営昭和記念公園 木々や花囲まれ ハイキング気分で
2001 10 25 バリアフリーなど課題指摘 国営昭和記念公園 景観、安全面に評価 東京余暇会が調査
2003 2 13 昭和記念公園にドックラン設置 5月オープン
2003 10 2 昭和記念公園にフットサルコート 20日から利用可能に
2004 4 26 みんな顔パス 国営昭和記念公園の年間パス始まる
2005 7 19 22年目、入園4000万人達成 国営昭和記念公園
2006 4 5 昨年度の入園者 過去最高を記録 昭和記念公園
2006 5 8 連休中の入園者 過去最高34万人 昭和記念公園
2007 10 11 武蔵野の農村再現 田畑に水車…懐かしの昭和30年代「こもれびの里」13日にオープン 開墾から5年、市民の手作業で

 新たな発展とは、どのような点に求められたのでしょうか?

  1. 1998年、障害者手帳を持参した入園者(特別料金が設定されています)は、28,000人だそうです。身体的ハンディを抱えた人の動きを阻害しない環境、自然を肌で感じてもらうためのサポート……新しい時代に対応が迫られているこれらの課題に取り組む芽が、「発展期」にはっきりと感じられます。

     「東京新聞」には触れられていませんが、遊具広場(みんなの原っぱ)の「わんぱくゆうぐ」がリニューアルされ、障害者も安全で自由に遊べる六つの新遊具を採り入れています(2003「朝日新聞」)。
  2. また「生育期」を特徴づける施設の拡充も、継続して行われています。若者向けのスポーツ施設であったり、やはり来園者にちがいない犬の運動広場であったり、デリカシィに富んだ目を向けています。
  3. そして今までにない「緑・花文化の知識ゲーム」(「公園検定」のようなものか)が2000年から、2004年からは「年間パスポート」など、新しい試みが始まっています。私も初年度から毎年「パスポート」を購入し、期限の切れた「パスポート」も記念に保管しています。このシステムは、発行の前々年の、利用者調査で、「入園者の75%がリピーター」であり、その方達の「年間パスポートの発行を望んでいる」声(2004「毎日新聞」)に応えたものでした。
  4. 更には公園へのアクセスに大きな前進が見られたことです。一つは「砂川口」のオープンです。「玉川上水口」や「立川口」とは距離のある公園北側地域の方々の利便性が高まりました。

     JR「西立川駅」の自由通路化工事も見逃せません。建設省の工事決定を伝える記事中、「昨年度(1999)の年間入園者数は二百六十四万人。うち約百万人が同駅を利用して公園を訪れている」とあります。おそらく「西立川口」からの公園へのアクセスが最も多かったのでしょう。にもかかわらず、これまで同駅の「公園口改札」は週末・夏休み・春秋の行楽シーズン以外は、職員の応援態勢が整わず閉鎖されています。公園を訪れる方々は公園を目の前にしながら背を向けて、反対側「南口」に出て、線路沿いを歩き、踏切を渡って四百メートルほど迂回しなければなりません。苦情が多いのは当然のことで、本来ならもっと初期的な段階で実現すべきだったと思われます。

 西立川駅改築工事は2002年夏の完成を目指しました。これと呼応するかのように地元の商店街「西立商店街振興組合」(坂村宗紀理事長)が駅名変更の運動を展開しています。「西立川」から、公園利用者にも分かり易く、また地元商店街の活性化にもつながる「昭和記念公園駅」への変更を、立川市長(当時は青木久氏)に陳情し、昭島市側とも連携を進めたが、費用負担が最大の障害となってきました。この件は「読売新聞・多摩版」(2002.8)のみ取り上げています。

 立川中央図書館で「東京新聞・多摩版」を調べることの出来たのは、ここまででした。2008年からの資料は製本準備中で、にもかかわらず司書の方々のご厚意で1月から3月のものを拝見することが出来ました。それ以降の資料は、「東京新聞立川支局」のご厚意で閲覧、コピーさせていただきました。心から感謝いたします。 最後に設定した「成熟期」は「これから」の言わば未来の「私の昭和記念公園」に期待するものを込めて設定しました。


[V] 成熟期

 果たして「成熟期」と名付けてよいものかどうかは分かりません。少なくとも「そうあってほしい!」と願って、私個人の「これからの昭和記念公園」に期待するものを挙げて、このホームページの最終章にしたいと思います。

 散策の中で私の肌で感じた昭和記念公園の魅力、それがこのホームページを起こした原動力になっているのは間違いありません。しかし全てに百%の満足感を覚えたわけではありません。次に掲げる5項目に敢えて限定して、私の考える「成熟」への条件として掲げたいと思います。

  1. 花は花らしく、緑はあざやかに…
  2. 花・緑の文化の啓蒙こまやかに!
  3. もっと歩きたい林の中の散歩道
  4. 磨きたいマナー 公園とのお付き合い
  5. 菜の花・カルガモ・清流を!
花は花らしく 緑はあざやかに!
 季節ごとに美しい花を、そしてあざやかな緑の輝きを多くの人の目にやきつけてくれます。季節が過ぎると植え替えの御苦労もあります。しかし自然の条件によっては美しさや輝きを半減させることもあります。特に「こもれびの丘」には残念な思いをした経験があります。自然の条件を受け容れながら、人の丹精で花に応えていくのでしょう。「自然の公園」であるかぎり、「花は花らしく」「緑あざやかに」、これが一番の願いです。
花・緑の文化の啓蒙こまやかに!
 花に対する豊かな知識をお持ちの方に時々お目にかかります。しかし私のような中途半端な知識のまま路傍の花を眺めたりカメラを向けたりしている人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。花木の紹介の「プレート」も工夫がありますが、散策中に、この花の脇にも紹介の「プレート」がもっとあったら…と思うことがしばしばあります。また公園のHPに「公園図鑑」が用意されていますが、紹介される植物が季節を代表するものに限られています。花木の相談コーナーなどがあって、写真を寄せて教えていただく、そんな窓口があれば私たちの知識や関心も深まり、自然への意識も更に啓蒙されていくことでしょう。「鳥のガイドブック」はあるそうですが、「昭和記念公園花木探索ハンドブック」のような冊子が出来るとよいのですが。
もっと歩きたい林の中の散歩道
 先日「出没!アド街ック天国」(東京TV)で「昭和記念公園」が取り上げられ番組制作者によるベスト30のランキングが紹介されました。一位は公園の中央に位置し、あのシンボルツリーの欅のある「みんなの原っぱ」でした。ランキングの中で一つ大きな欠落した要素がありました。それは〔川沿いの散歩道〕や「こもれびの丘(の散歩道)」、そして〔野草の小径〕などです。私だけでなく「散策」は、この公園の欠くことの出来ない魅力の一つです。散策コースは歩く人の好みで描けばよいのですが、上の三つの散歩道は、公園の自然に触れる魅力のコースと言ってよいと思います。

 「東京新聞・多摩版」(2001.9)の「歩きませんか」の囲み記事で初めて「昭和記念公園の散策」という視点からのガイドをしています。水鳥の池・みんなの原っぱから日本庭園までを反時計回りで周遊するコースを図を交えて紹介しています。このコースからも残念ながら上の二つの「散歩道」は触れられていません。

 私の願いは、「こもれびの丘」の北斜面をもっと整備して、武蔵野の面影を体感できる小径をのばして、足下の野草に目をやりながら、木漏れ日の光を浴びながら、木の間から青空を見やりながら……もっと歩く道をと、願うばかりです。そして[川沿いの散歩道]の路傍に植栽された紫陽花の沢山の株が、丹精されて大きな株に育ってほしいということです。
磨きたいマナー、公園とのお付き合い
 残念ながら世間では傍若無人な振る舞いを見るのに事欠きません。道端に置き去りにするゴミ、そして駅の構内ばかりか人通りの多い道路のあちこちにこびりついた黒い異物。マナーの低い文化的後進国を揶揄する資格が本当にあるのでしょうか?かと言って散策途中で、何気なくゴミを拾う人もいれば、仲間どうし分担してゴミを持ち帰る若者の集団を目にすることもあります。昭和記念公園では、目を覆うような光景は見たことがありません。公園に働く人たちの努力やパンフレットや園内アナウンスの呼びかけも効果的なのでしょう。また来園者の世代が多様で、子供たちにマナー意識をうえつけようとしたり、互いの世代の責任や分別を示そうとする意識もないわけではないでしょう。公園というパブリックな場が、マナーへの感性を磨いていると言えると思います。

 私自身も「成熟期」があるとすれば、環境的・空間的な成熟ばかりでなく、公園とお付き合いをさせていただく私たちの心の成熟にも期待したいのです。「入園者のマナーに期待」(1997)と記事上、苦言を呈された頻発した「花泥棒」は論外として、サギソウ・ハーブの愛好者ばかりでなく、カメラマンさえ、自分の心にふつふつと湧き上がる情念に勝てずに、張られたロープを超えてしまうことがあります。自分の利益・社会的利益・国益…最近、私の大嫌いな言葉です。「利益」を金科玉条のごとき理想に掲げるのが「世間」という名の世界です。こういう「世間」に何が起こっても不思議はありません。「公園」は「世間」の対極にある場のような気がします。

 「成熟期」に向けて、林の中の散歩道に散乱する枯れ枝の放置、草むらの中のプラスチックゴミ、水鳥の池の生き物へ餌付けする利用者など気になる点はあるものの、みな些細なことばかりです。私たちが自然とのつきあい方を自省し、多くの世代・性別の方々を意識し、人としてのマナーを磨いていきたいものです。あくせくした「世間」では、なかなか磨けないものです。
菜の花・カルガモ・清流!
 最後に2008年6月に発売された一枚のDVDを紹介させていただきます。『壊された川』(残堀川のカルガモを救う会・星紀市氏)、このドキュメントに込められた願いは、「昭和記念公園」の「成熟期」への私の思いと重なる部分が多いからです。

 「枯れた川流れを追う」(2008.6.22・読売)の見出しで紹介されたこの作品は「干上がる残堀川」(1998.5.29・読売)の原因を17年間にわたって関係者や地元住民の声に取材しながら究明しています。氏のカメラは制作当初(1991)「水面をスイスイと泳ぐ」カルガモ親子をとらえていました。やがて「水のない川床を歩く」姿を、そして「雨が残った水たまりでエサを探す」カルガモを映し出しています。「都市化」の代償に私たちの喪ったものは何だったのでしょうか?

 水枯れの原因を都が行った「河川改修工事」に求めたのに対して、行政側は「水源も乏し」く都市化の影響が大きいと、隔たりがありました。「1994年にコンサルタントが入り原因は河川工事と判明」(作品解説)しました。1996年、都は「人工粘土を川床に埋める工事に着手」(読売)しました。総額九億五千万円の対策工事のようです。これで喪ったものの回復が得られるのでしょうか?

 新たに問題視されている水源が乏しくなっている現実をどう克服するか、地理的、科学的に専門家の見識に目処を確かめながらの慎重な自然への対処が、この問題当事者全てに求められると思います。

ともあれ、橋や散歩道から見下ろす先の残堀川に、いっぱいの菜の花が清流をかこんで、カルガモや羽を休める野鳥の姿を求めて活動している方々がいらっしゃるのです。そんな〔川沿いの散歩道〕を、いつの日か、元気な足どりで歩いてみたいものです。
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