サプライズ - 散歩中に、意外な出来事に出合いませんでしたか?
はじめに
古典作品における植物や花は研究もされ、多く語られてもいます。近代以降も韻文の世界、特に俳句では植物や花はその生命線を支える重要な因子で『歳時記』で集約もされています。しかし近・現代文学の小説に花をみつけよう、摘んでみようという作業は極めて少なく感じます。『花の名随筆』(全十二巻・作品社)には若干の短編小説も含まれています。ここでは、もっぱら拙い見識に頼る作業で覚束ない進展になろうかと思いますが、近・現代文学の小説の中から、心に残る花を摘んでいきたいと思います。
今回の更新(2010年秋)にあたって1~30については「花摘みのあと」の項に格納し、 あらたに十作品を入れ替えました。今後も更新ごとに入れ替えて いきます。
*格納した作品は次の通りです。
| 作家 | 作品 | 小説の中の花 | |
|---|---|---|---|
| 1 | 芥川龍之介 | 或る日の大石内蔵助 | 梅 |
| 2 | 山本 一力 | 菜種晴れ | 菜の花 |
| 3 | 渡辺 淳一 | 君も雛罌粟われも雛罌粟 | ポピー |
| 4 | 横光 利一 | 春は馬車に乗って | スイートピー |
| 5 | 三島由紀夫 | 剣 | 百合 |
| 6 | 向田 邦子 | 耳 | グミ |
| 7 | 乙川優三郎 | 後瀬の花 | 卯の花 |
| 8 | 原 民喜 | 夏の花 | 百日紅 |
| 9 | 石上玄一郎 | 蓮花照応 | 蓮 |
| 10 | 井伏 鱒二 | かきつばた | かきつばた |
| 11 | 淺田 次郎 | 切符 | 菊 |
| 12 | 夏目 漱石 | それから | 百合 |
| 13 | 堀 辰雄 | 曠野 | 山吹 |
| 14 | 菊池 寛 | 忠直卿行状記 | 萩 |
| 15 | 緒方 俊平 | わすれていて ごめんね | 夾竹桃 |
| 16 | 阿川 弘之 | 年年歳歳 | 桜 |
| 17 | 阿刀田 高 | 半夏生 | 半夏生 |
| 18 | 高橋 治 | 風の盆恋歌 | 酔芙蓉 |
| 19 | 太宰 治 | 富岳百景 | 月見草 |
| 20 | 横光 利一 | 睡蓮 | 睡蓮 |
| 21 | 二葉亭四迷 | あひびき | 矢車菊 |
| 22 | 田山 花袋 | 田舎教師 | 蓮華 |
| 23 | 伊藤 左千夫 | 野菊の墓 | 嫁菜 |
| 24 | 佐藤 春夫 | 西班牙犬の家 | 薔薇 |
| 25 | 壺井 栄 | チューリップの幻想 | チューリップ |
| 26 | 中山 義秀 | 厚物咲 | 菊 |
| 27 | 森 鴎外 | 雁 | 敗荷 |
| 28 | 尾崎 一雄 | 夕顔 | 夕顔 |
| 29 | 山本 周五郎 | 日本婦道記 | 桃 |
| 30 | 横光 利一 | 御身 | 躑躅 |








□ 日支事変勃発の翌年、昭和13年の「文学界」(四月号)に掲載された『南方郵信』は、選に漏れたものの、芥川賞候補作に名を連ねていました。(地平にとっては、生命力溢れる農婦を描いた『土竜どんもぼっくり』に継ぐ二作目の候補作で、ともに南国は日向の国が舞台となっています)受賞作品は、あの『厚物咲』(中山義秀)でした。
かつて進藤純孝氏は作品の価値を「時と所を離れて、なお文学であることが前提」としながらも、「時と所の衣裳を着せてみることも、一つの文学鑑賞なのである」(筑摩書房「日本文学全集・現代名作集三」)と、読者に一言を呈していました。時代や風土も小説の舞台として、鑑賞に不可欠なことは至極当然のことでしょう。この作品に戦争の影はありません。そこには鄙びた南国の田園を背景に、気儘な生の息吹が屈託なく描かれているばかりです。
舞台は作家の故郷、日向の国。港湾らしい設備もない素朴な港、砂丘に「ハマオモト」(浜木綿の別名。宮崎県の県花。南国に蘇鉄とかフェニックスなど思い浮かべますが、この花は『長耳国漂流記』にも「南方植物」として登場します)が点在しています。間もなく港には、年に一、二度、上方との交易に行き来する「第二海竜丸」が戻ってきます。この船主「牧の旦那」を軸に、話は展開します。
寂しい村に始めに登場する旦那は、毎日午後になると栗毛の老馬に跨って村中を闊歩しますが、その様子は居丈高どころか、「半ば眠ったよう」で「夢見心地」の態。それでいて「見わたすかぎりの田圃に、黄色い花が霞のように咲き揃って」いる「間からむくむくと背のびして」する村人の挨拶には愛想良く返します。日本の田園風景に、蓮華とともに欠かせない菜の花が、この地に生きる人々の生活の舞台として随所に、その色合いや香までが描かれ、牧歌的雰囲気を高めています。馬に跨る旦那の姿も、その容貌は異様で禪智内供(『鼻』芥川龍之介)を髣髴させる鼻は、「立派な髭の中央部を全くおし隠してしまうほど、低く、長く垂れさがって」いて「美しか女子の前に行くと、だしぬけに居ずまいを正す」様子を、「楽天的で、屈託のないこの地方」の「若い主婦さんや齢頃娘たち」の好色な噂の種にもなっています。しかし旦那は家では実に暴君で、春夏秋冬に様々なエピソードを撒き散らし、その余波を被る村人の姿が伸びやかに描き出されています。一つ一つのエピソードの切り出しは、老馬の手綱を握る「源吉爺さん」です。
或る時は書斎に迷い込んで粗相をした鶏に短気を爆発させ、爺さんに「生きたまま、みんな毛をひん抜いてしまえ」と命じます。無慈悲な命令に「眼頭にいっぱい涙をため」て、逃げ惑う鶏の毛を半ば毟りました。後にそれを見た旦那は、命じた自分を棚に上げ「わりゃ、なんちゅう非人情なあんぽんたんじゃ」と怒鳴りつけます。こうした出来事の幾つかが、旦那や爺さんばかりではなく、周囲の村人のおおらかな「人」の輪郭を描いていきます。 しかし幾つかのエピソードが語られた後、読者は二人の村人がプロットの主流となっているのに気づきます。家鴨や七面鳥の飼育を進言し、悉く斥けられた源吉爺さん。もう一人は「齢の頃三十 ばかり」、「しどけない姿」で「見さかいもなく、男たちに抱きつく」という噂の「色気ちがい」の「お浜」です。旦那や源吉と並んで頻繁に登場し、源吉を通して、噂話では語られない孤独で澄んだ一面も姿を現します。
お浜は「豆腐屋の二階に間借りして住んでいた」こともあり、少しばかりの賃金をもらって豆腐の粕を配達しています。旦那の家にも毎朝やってきては、笊を源吉に手渡します。自分の孤独の嘆きが、お浜を思い遣る言葉となって出ます。お浜も時には「ワラビやモチクサ」など野の草を摘んできます。粕を届けたお浜が裏の川岸まで釣り好きの源吉について行くこともあります。はしたないお浜の姿に目もくれないで「熱心に川面を覗きこ」みながら源吉は声をかけます。こうした無駄口を「ほんとうの愛娘とむつみあっている」かのように心楽しく感じるのでした。
椎や樟の葉の茂る真夏の或る日、お浜が妊ったという噂が旦那の耳に及びました。男たちは相手がお浜だけに疑いの矛先を他に向けようと騒々しい噂が飛び交います。噂を初めて旦那に告げて、「出入りさしとめ」となった「馬力の六やん」は隣村からの帰り道、「一本松の地蔵さま」で一服した後、坂下の「トタンぶきのあばら屋」から猫背の源吉爺さんの姿を見たのでした。そこは、お浜の住処でした。
作者は、粋で好色な地蔵の伝承も紹介しています。「冬近い午後」、裏庭に出た三太は、椋の樹の根元に屈み込んでいる爺さんの顔に、「黄ばんだ枯れ葉」が散りかかっているのをみました。声をかけても応えませんでした。三太の泣き声も届きそうもない「高い高い紫陽花いろの空」に聳える椋の梢、その周囲を「大きな円弧を描」いく一羽の鳶。鳶の視界には町や田畑や川や山脈、そして「静かで、悠久な」自然が在ります。そこで作者は語ります。「既に神様になった源吉爺さんの魂は、恐らく今はなんの屈託もなく、風にふかれてさまよい歩いているにちがいない」と。しかし読者はこの、のどかな南国の空の、遙か遠い異国の空に、むくむくと盛り上がる日本の黒い雲を思わざるを得ません。
「早い南国の菜の花が、部落の畑いっぱいに咲きそろった頃、お浜は女の子を産んだ」、しかし村の百姓達は、父親は「一本松の地蔵さまかもしれないと含み笑いをしながら噂しあった」そうです。
南国・日向からの郵信(レポート)は、時代の空気に微動だにしない風と香と、人々の息遣いを配信しています。受け手は、廬溝橋事件による中国との戦線突入、一方では強権による共産主義者の弾圧や左翼系作家たちの執筆禁止、更には「転向」の問題など、険しい空気の渦巻く社会に激しく、また密やかに生きる人たちです。私にも、この作品の生まれた「時と所」が思われてならないのです。時代の衣裳を顧慮せず読めば、明るい伸びやかな「南方譚」として楽しくもあり、また際どく造型された人間像それぞれに、人間の深みも感じられるのですが……。




□ モノレール(通勤電車)の車窓から遠い柳の、淡く霞んだ緑を見遣って、春の気配を感じたものです。季節はやがて私の住むT市の市花・辛夷の堅い蕾もゆるんで、真っ白な花が青空に映えて目にしみてきます。勤務先の学園のあちこちの植え込みにも、腰の高さに馬酔木が春の先駆けとして可憐な蕾をひらきます。
「年譜」(旺文社文庫)によると、1942年早春(3月)、堀辰雄は「夫人と木曽路、伊賀、大和に遊び、浄瑠璃寺、室生寺を訪ね」ています。後の『辛夷の花』『浄瑠璃寺の春』は、この旅の所産です。旅は、大和路に「馬酔木の花ざかりを見よう」というものでした。宿を木曽福島にとった翌朝、思いがけない吹雪に見舞われます。『辛夷の花』には雪の中を走る汽車の車窓から、木曽の谷や川を見やる作者の姿が描かれます。ふと耳にはさんだ乗客の会話から、山の端に辛夷の白い花を見つけようと目を凝らします。「旅のあはれを味つてみたかつた」のだそうです。なかなか捉えられなく、「いましがたの雪が解けながら、その花の雫のやうにぽたぽたと落ちてゐるにちがひな」い花の佇まいを心の裡に浮かべて、ただ春を想うばかりです。
汽車は、この旅のめざす大和路へ二人をはこびます。『浄瑠璃寺の春』では、大和路のあちこちに多くの花と出合います。山道に咲く蒲公英・薺。寺に向かう途は、桃や桜、菜の花。七面鳥の鳴き声も聞こえてくる、のどかな田園の中です。
浄瑠璃寺では念願の馬酔木の花ざかりに出合います。小ぶりで、鈴蘭の趣の見慣れた花ですが、作者には古代への憧憬という精神的な背景からでしょうか、強い愛着があったようです。馬酔木を詠んだ歌は『万葉集』中に十首を数えます。萩や梅は別格としても、けして少ない数ではありません。身近な花々に託されて、万葉人の生活や心情が表出されています。巻十・詠み人知らずの歌に「わが夫子にわが恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今は盛りなり」(1903)では溢れんばかりの恋情を、枝先も撓むほど一杯につけた花に模しています。
「馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺」(秋櫻子)のの景と同じく、「かたわらに花さいている馬酔木よりも低いくらいの門」と作者も書きます。庭木の下植え程度の灌木として見慣れている私には、簡素な山門への参道に立ち並んだ古木の佇まいが驚きとともに髣髴させられます。足繁く奈良を訪れている土田杏村氏(1891~1934/哲学者)は、その「生気の強さ」と、咲き誇る「はでやか」な喬木の姿を「立派なものだ」と称えています。そこは「東大寺から三月堂、手向山にかけて」で、「一面に密集し」た「その花叢の美しいことは格別で」、「ここの馬酔木だけは全く奈良の見ものである」と熱の入れようです。
作者の思い入れにも強いものがありましたが、それは土田氏とは全く別の視点からのものです。田園風景の中に、浄瑠璃寺の「名にふさわしい物古りた」山門を見いだした作者は、門のかたわらに「ちょうどその門とほとんど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに」「ふさふさと垂らしている」白い花に「どこか犯しがたい気品」と「いじらしい風情」を感じるのでした。圧倒されるような風景の壮観さに対してではなく、古代人の、一房の花への親しい思いに、懐かしさを感じたのではないでしょうか。
家持の詠んだ「池水に影さへ見えて咲き匂ふ馬酔木の花を袖にこきれな」(巻二十/4512)などは、花を慈しむ繊細な情が直截に滲み出ていて、作者と何か共通する抒情が漂っています。
蓮池の畔から阿弥陀堂へ歩をすすめて、作者は熱心に観仏の時を過ごします。夫人は、寺僧の娘らしい少女の明るい饒舌に辺りの風景を味わいます。総てが「いかにも平和な、いかにも山間の春らしい」風景の中に、「古代の廃墟」が溶け合って織りなす「第二の自然」の魅力に快い気分を味わう作者でした。
これらの旅の翌年(1943・1)、『大和路・信濃路』の連載(『婦人公論』)が始まりました。間もなく、本土にも時代の暗い風が吹き荒れて、作者も病の魔手に侵されます。








□ 『日本掌編小説秀作選』(1981・光文社)は編者である大西巨人氏が、御自分の読書遍歴から短編小説五十一編(外に戯曲・詩・随筆など十数編)を選んで、二巻にまとめたものです。そこには、川端の『夏の靴』も採られています。若い読者層に一世を風靡した「ショートショート」(星新一)は独自性を持った異質なもののようですが「掌編小説」も「掌の小説」も、ともにアンソロジーの意識もあり、共通項が認められます。しかし『掌の小説』の中には、「掌」どころか「指の腹」で掴む程の極端に短いものや、読者の散文的な欲求が充たされないもの、後の創作のためのデッサンと思えるような作品さえあって、複雑な作品世界を感じさせます。
『文芸時代』の大正十五年五月号裏表紙(写真)に川端の処女短編集『感情装飾』の広告が大々的に掲載されています。(写真左側は第二短編集『伊豆の踊子』の広告)この短編集こそ以後四十数年に渡り書き継がれた「掌の小説」のデビューなのでした。ここには三十五編の「掌の小説」が収録されています。(現在、新潮文庫では百二十二編が集大成されています。今は絶版のようですが旺文社文庫(1969)は五十編を収録し、学生向きに挿絵や簡単な註まで施されています。特にカバーには佐田勝画伯による、南国風の極彩色の花瓣が描かれています。)
数多い作品中には、作者の詩的な心の揺らめきが捉えがたく、難解なものもあります。花に頓着せずに個人的な嗜好で云えば、少女時代の襦袢の小切を膝に広げて思案する娘の、その日の出来事を描いている『小切』(昭和19年)に感銘を受け、人にも薦めたい掌の小説です。娘をはじめ父母や出征する男たちの、荒波の中の日常、静かで澄んだ眼差しが感じられます。作品には一もとの花とてなく、花にも増して語りかけてくる「小切」と「人の心」があるばかりです。
122編の作品名に花の名が冠されているのは、胡頽子・百合・黒牡丹・藤・ざくろ・さざん花・紅梅・月下美人の八編。(他に、桐の花やからたちなどの花が印象に残る作品があります)恣意的になりますが、それらの中から『月下美人』と『胡頽子』の二編を選んでみます。
△ 『月下美人』(昭和38年・「朝日新聞」)
真夏の夜の夢…… 儚くも美しい月下美人が、膨らんだ蕾をゆっくりと大きく開きます。夕暮れの庭先で、夕顔の開花を眺めたことや、夜更けに、孔雀サボテンの真っ赤な花瓣がゆったりと開いていく様子を眺めたことはあったのですが……。
葉山の小宮邸には、この夕べ、主の案内で四人の女性が月下美人の観賞会に集まりました。みな小宮の別れた妻・さち子の同窓生です。一昨年、さち子を「もどしてほしい」と訪れた村山夫人のお声掛かりで始まった会、三年目を迎えた今夜は「一晩で十三輪」咲いた優雅な花の佇まい、甘い匂いが漂います。成る程、こんな見事な月下美人なら、「観賞会」も頷けます。しかし、この夜は微妙に様子が違うようです。村山夫人の花を愛でる感動の声も、また応える小宮の声にもはずみがありません。小宮の娘もよそよそしく、部屋から出て行ってしまいます。やがて今里夫人、そして初めて訪れる未婚者の島木すみ子を連れて、大森夫人がやってきます。月下美人に魅入るすみ子の動きに従って、花の形状や佇まいが、丁寧に叙述されます。また、その動きに誘われるように小宮も花を丹念に語ります。「あまい花の匂ひがすみ子をつつ」みます。その時、階上からバイオリンの音色が流れてきます。バルコニーで海に背を向け、少女の奏でるバイオリンでした ……
文庫本で僅か四、五頁を要約するなんて、と叱られるかもしれません。ただ、月下美人の神秘的な美しさと匂いを、そして少女の奏でるバイオリンの音色を瞑想すべし、という作品なのかもしれません。舞台は「木造の古風な洋館の広い応接間」、中央に設えられた円台の上の月下美人が、圧倒的な存在感を示しています。さりげない小道具ではなく、他を圧倒する主役の座なのです。
どこか散文的な私は、つい「これは後日に書かれる筈の或る長編小説の大団円だ」と感じたり、逆に「このプロローグから動き始めるドラマは、一体どんな人間模様だろう?」と思ったりしてしまうのです。
△ 『胡頽子盗人』 (大正14年)
掌の小説の中には、『伊豆の踊子』(大正15年・「文芸時代」)の舞台・伊豆に取材したものが多く、『胡頽子盗人』もその一つで、郵便配達夫が袷の着物を配達した山村の、古びた小料理屋の縁側を主な舞台に、鄙びた秋の風景と人間模様を描いています。
幾つかのフレーズは、まるで詩句のように繰り返されています。「小学校の女の子が歌いながら山路を帰って行く」そして、その歌。「子供が金の輪に秋の音をたてて回しながら走っている」、こちらは男の子でしょう、昔、私たちの世代も興じた遊びの一つです。カラカラと輪の回転する音が響きます。繰り返されている秋の山里の響き。視覚からも秋の気配が感知されます。真紅に紅葉した漆、恐らく柿の実は枝もたわわに実っていたでしょう。そして田の畦には色鮮やかな実をつけた胡頽子(グミ)の木があったそうです。炭焼きの父の病を往診した村の医師への謝礼に、娘は炭俵を背負い、途中胡頽子の大きな枝を手折って山を下ります。「山で柿でももらっていけ」という父の指示でしたが、柿を盗めないまま稲田まで下りて、そこで見た胡頽子の鮮やかな赤が、「盗心の憂鬱を吹き払ってしまった」のでした。実を一杯につけた胡頽子の枝の、目を瞠る美しさが感情を圧倒したのです。道々、学校帰りの女の子も千切り取っていきます。村の小料理屋の前に差しかかると、女は「まあ綺麗」と、道行く娘に声をかけます。娘は女の着た「新しい銘仙の袷にすっかり驚いて」胡頽子を枝ごと差し出します。女は一粒口に入れた胡頽子に、袷を送って来た故郷の母を思い出すのでした。
これもまた、こうした梗概は不要だったかもしれません。しかし要約してみると何と詩的因子が多いのか知らされます。女に送られた袷の着物、郵便配達夫が置いていった硬貨、そして大きな枝振りの胡頽子……など、どれも一編の中で広がり、醸成しながら息づいているようです。採り上げた両篇とも脚本家の手に託すことで、おそらく掌上の舞を見せるどころか、掌から飛び立って、新しい想像の世界が創られる、と感じています。
(グミの図は木下杢太郎画『百花譜百選』岩波書店から)




□ 私には馴染みが薄い芥川賞作家でした。田辺聖子、宮部みゆき、桐野夏生などを通勤電車の友とした時代がありましたが、その誰よりも作家が女性であることを意識させられました。この作品を契機に、芥川賞受賞作『光抱く友よ』や短編集『湖底の森』など何編か読む機会を得ましたが、花木を細やかに風景描写に織り込む自然への繊細な神経や、作品中の女性への同性ならではの深い理解と共感が作品の基調を支えている点などが、その意識の背景にあったのでしょう。「香り」とか「匂い」などの嗅覚的表現が目立つのも、これに加えられるでしょうか。
「庫裏の前の梅桃が白い小花を群がりつけていた」――『桐の花』は劈頭、梅桃の丹念な描写とともに主人公・節子が紹介されます。
節子は半年の入院生活を経て、亡夫の跡を継ぎ住職を務める息子夫婦の寺に戻ります。嫁の松江の介護の心準備をよそに、矍鑠と振る舞います。気丈に虚勢を張っても長い散歩は覚束ない筈です。
「散歩は節子に病気のことを忘れさせた。散歩の要領を覚えることで生きることの要領もわかるような気がした。無理をせず、遊ぶことだった。ことあるごとに立ちどまり、これでいいかい、と自分に問うことだった。もっと歩きたいとなれば、歩いた。」……歩くことが辛くなった点で私と似た状況にあるので、この表現は身にしみました。
しかしある日、裏山の石段から踏み分け径へと入り、かつての土葬の墓地に出ます。「ここに来るたび、心が軽く」なる節子は「ここまで来た以上、ついでにあそこまで」と、何かに憑かれたように或る場所に誘われます。彼女を待つのは一本の桐の木でした。桐は久々に会う恋人のようです。
桐の傍らの、空木の陰に座して画を描く熟年の男に突然声をかけられます。謎めいた男ですが、二人とも桐の花に魅せられている点では同じです。初対面とは思えない、年相応の遠慮のない会話が交わされた後、節子は、それとなく三日後ここで会う約束をして男に背を向けます。三日後、他愛もない会話は、いっそう親しげです。
そして三度目は病院の診察予約日ですが、朝から気分が悪く、めまいにも襲われています。それでも家を抜け出し、緑の波をくぐるごとに足取りは確かになります。桐の花は満開でした。画帳に色づけをしていた男は花の美しさになぞらえて、節子の少女の頃の思い出を語り出します。節子は十三で、男は十七。この桐の樹の下で、二人には共通の思い出があったのです。節子の記憶を醒まさせようと、男は「あのときと同じようにしてさしあげよう」と、ふわりと空を飛び枝の上に立ちました。……不思議の世界は確証を帯びてきます。男が体を揺する度に、淡い紫色の花が舞い落ち……節子の記憶は蘇ったかのようです。しかし「男は、戦後間もなく死んだはず」でした。男は、なおも花を撒き、その表情は「少しずつ真剣に苦しげになって」いきます。節子の体に落ちた花から蜜が流れ、体の内側深くまで潤いました。松江は自分が節子の亡きがらを見つけたことに安堵ました。節子の体からは、「甘やかな匂い」がたちのぼっていたのです。
……梅桃は、まだ実をつけはじめたばかりでした
どこかミステリィめく匂いがあり、それでいて二人の過去がほんのりと蘇ると同時に、メルヘンチックな幻想が紫の花の乱舞の中に拡がります。渡辺淳一ではなく「この作家だから書けたのか」と思える、「セクシャル」とか「エロチック」という概念を綯い交ぜにしたような妖しいものが、読後の私に、残ってしまった気がします。身近に目にすることの稀な桐の花、その紫の花と重ねてこの作品が記憶の底に残るようです。
(記念公園に梧桐はあっても桐の花はありません。長い間机を並べて、パソコンの苦手な私に、厭わずに御世話してくれたお仲間・町田在住のK氏が、近くの山林の中に見つけ提供してくれたのが、下の一枚です。以前、氏には町田のグミの垣根も撮っていただいたことがあります。いつまでも性懲り無く、御好意に甘えています。)




□ 折にふれ東西の古典案内とも言うべき著作や、適度に怪異的で大人の童話の風味のある氏独特の短編の世界を楽しんだりしてきました。この短編集は前年(2008年)『オール讀物』に発表された12篇が収められています。それぞれに面白さがありますが、中でも表題作の『佐保姫伝説』では標題の示すごとく桜花の美しさが圧倒的です。
子規に「佐保姫のもてなしあつし独り旅」という、春の息吹を詠んだ名句があります。「佐保姫」は春を司る女神。作者はその古典的世界を、現代の日常的な世界に手繰り寄せます。
主人公は小学校四年生の頃、仲間と山に遊びに出かけてはぐれ、満開の桜の散り初める美の極致のような風景に迷い込みました。時を経て少年は「あれは、どこだったろう」「夢でないなら、また行けるはずだ」と思うのですが、やがて思いは心の隅に放置されます。それが高校三年を目前にし、ふと思い立って、あの場所を訪ねてみました。春満つるに遠く、嘗ての風景も「べつに、どうってことじゃなかったんだ」と、心にわだかまっていた問題を、敢えて解消したつもりになっていました。同短編集の中の『恨まないのがルール』で、恋愛に対して執着心に乏しい主人公の心理の背景として用意された『イソップ寓話』の「すっぱい葡萄」(「狐と葡萄」とも)の話にも似て、心の平安を得るための防衛心理だったのでしょうか。しかし人生の晩年期に、積み残してきた荷を求めようとする気が心に巣くうのも、自然な心理でしょう。還暦間近に、「花は美しいな――と、しみじみ思うようになった」頃、「遠い日の出来事が甦」ったのです。それが、いつ訪れるか?それはどんな問題に関わってのことか?人それぞれながら、恐らく、人みな出合う心理だと思います。
妻の冷笑をよそに、ここ数年あの場所に熱心に通います。一昨年は薄桃色の落下が川面を覆って、季節は「遅かった」のです。が、川上からの女性の歌声を聞きました。「桜んぼの実る頃」――仏文出身の作者にとってたまらないシャンソンの名曲です。川上で、惜春の歌声の主と言葉を交わします。イーゼルを手にした謎めいた女性は、絵を描くのは「仕事ですから」と呟いて、不思議と東の山の方へ向かっていきました。
昨年の春、長い勤めを離れて体調を崩したためタイミングを逸し、すでに葉桜でした。草地に、あの女性画家のものらしい「薄桃色の桜の花」のイヤリングを見つけました。川縁に老婦が坐っていました。老婦に画家を尋ねると、「佐保姫さんかもしれん」「毎年、春を撒きに来る」「今年の春はどうじゃったか、絵に描いて」「歌いながら帰って行くわな」と。そして加えて春の女神は気が強いので二度会ったらいかん、と話すのです。老婦の後ろ姿に「似ているかなあ」と思うのでした。
そして今年の春。眼前の春は「雲のような花の群」は絶景でしたが、「少しちがう」と感じ「過ぎ去った日は二度と戻って来ないのが常」と考えるのでした。花の下に寝転がっていると……。作者の世代の方たちに愛された、あの「蘇州夜曲」が聞こえてきます。女が舟を漕いで歌っています。夢うつつの中で「佐保姫かも?」と思うのでした。
理屈で割り切ろうとしたり、無理矢理に人生の普遍的命題に結びつけようとする必要もなく、作者の紡ぐ現代のメルヘンの世界に復活した女神・佐保姫を身近に感じて、再三にわたって過去を訪ねる主人公に共感できれば、それで「楽しく読めた」ということでしょうか。それにしても子規の句には春の至福を感じます。







□ 『初恋』は明治二十二年、『都の花』発表された氏の出世作です。逍遙の『小説神髄』の四年後、二葉亭の『浮雲』とは、ほぼ同時期、近代文学の黎明期の作品と言えます。
古典文学における「初恋」は「恋の初期段階」を指すようですが、現代は無論のこと「人生最初の恋愛経験」と捉えるのが一般です。描かれている初恋は月並みですが、そのような概念としての初恋を捉えた、初めての近代文学ではなかったでしょうか。
「初恋」というと、藤村や啄木の詩歌が身近ですが、明治期の小説の分野には印象に遠いものがあります。僅かに樋口一葉の『たけくらべ』(明治28年)が目に留まるでしょうか。明治も末年には、漱石も称賛したという、森田草平の一風変わった『初恋』(明治44年)もあり、わけても『野菊の墓』(明治39年・左千夫)は、表題にこそ冠せられていませんが、遠い回想に年上の女性との実らぬ少年の恋心を描いた点で、同列に加えたいところです。実篤も自己の体験に基づく『初恋』(大正3年)を書いています。
さて嵯峨の舎の作品はツルゲーネフの『初恋』(1860年)によって生まれました。同じく逍遙に知遇を得ている二葉亭から、この本を借り「堪らず嬉しく感じて到当書いた」(「文学者としての半生」)とあり、その回想的自叙伝スタイルはそのままに踏襲されています。露西亜語を学ぶ二人ですから原語による細部の検証をしながらの読書で、当然「影響とか感化」も大きいものがあったでしょう。遙か昔(もう四十年程の月日が経ったでしょうか)、近代文学館の「武者小路実篤展」に出掛けた折、展示の中にトルストイの文章をぎっしり書写した実篤の大学ノートを見て、作家にとっての母なる存在を感じたことを思い出します。
嵯峨の舎の作品もツルゲーネフの『初恋』から、結構のみならず細部に至るまで、触発される点が多かったのではと推測されます。「嗚呼思ひ出せばもゥ五十年の昔となッた」と「十四の春」を語り始めますが、この冒頭部分はツルゲーネフの作品とは異なります。話者・ヴラジミール・ニコラーエヴィチ(「四十がらみの、黒髪に白を交えた男」新潮文庫・神西清訳)が誰にどんな状況下で語るかが明確にされた後、「その頃わたしは十六歳だった」と語り始めます。帝政ロシアはニコライ一世の時代のことです。
二人の少年の初恋の対象である「ジナイーダ」と「お雪」。奔放でコケッティシュなジナイーダは個性的な五歳年上の妙齢の令嬢。「天然の麗質」「人を照らすばかり」のお雪は、四歳上の従姉で、やや類型的。対照的な二人ですが、少年は一様に心を掻き乱されます。気高く妖しいジナイーダの魅力に翻弄されるウラジミール、彼より更に幼く無邪気ささえ感じさせる少年は、名前の紹介は見あたりませんが、「秀さん」の二人称が繰り返されます。
江戸から離れた、利根川沿いの城下町に育った文武に励む武士の子でした。十四の春、江戸から叔父に連れられ訪ねてきた従姉に抱いた淡い思慕の情が初恋であった、と老翁は語ります。従姉を気にはかけても、素直には動けません。裏庭で弓の稽古に励むのを従姉に賞められて喜ぶ姿、少年の無邪気さも漸く自然に面に表れます。姉と従姉と共に庭を歩くと、卯の花が「旭光に映じて咲いて」いました。少年は自分の丹精の結果を告げて誇らし気です。花壇には「今は盛りと」白牡丹が咲いています。花の下に飼い猫の空寝、ひらひらと花に舞いおり、しばし休む蝶。蝶をねらう猫をたしなめる従姉の表情に少年は「恥かしいような、嬉しいような、妙な感情が心に起ッて何となく胸が騒」ぐのでした。馬の稽古から戻った夕べには、従姉の座敷に招じられて、鶴や三方など折り紙を教えてもらい、喜びが募ります。その夜、祖母の部屋では、大人たちが叔父や従姉を囲んで何やら話し合われました。しかし、少年の同席は許されません。「何となく嬉しくいそいそとし」た一日だったので、少年の不満も「直ぐに消えて」睡りにつきます。
従姉が江戸に発つ日も迫り、江戸土産にと、蕨採りに出かけます。この小説での圧巻の場面で、描写も丹念で、印象深い場面です。ここまでにも少年の心の晴れやかさを表すかのように幾つかの花が使われていましたが、ここでも山に行く道々、菫や蒲公英や蓮華草が「春風にほらほら首をふっている」と、彼らの楽しい気分が伝わってきます。野に咲く花々、行き交う人々、かなり詳細に田園風景を描いています。
湖底に沈んだ山村の出の亡父と同郷の隣人・H氏も昔を振り返って「小学校ではみんなで蕨採りに出かけ、採った蕨を売って、そのお金で学校の図書を揃えて『蕨文庫』と名づけてた」と話していました。そういう経験を全く持てなかった私にも、この作品の佳境である「蕨採り」の場面を髣髴させるほど具体的で丹念な描写がありました。
蕨採りの様子は割愛しますが、その日の楽しさは「十四歳になるまでに絶えて覚えのない」ものであったようです。「歓喜の後には必ず悲しみが」、実は従姉の滞在は、縁あって、この地で見合いをする段取りであったのです。昼間の武術の稽古で、それと知らずにいた少年は、後日これを耳にして「部屋で貌を両手へ埋めて、意気地もなく泣」きました。
別れの前日、座敷に集まって名残を惜しむ家族。自室で泣き崩れていた少年も、姉や従姉に宥められ、漸く座敷に合流し、すぐにも笑い興じるのでした。別れの夜、川面一面に立て込める夕霧の中、船は利根川を下っていきました。
娘は江戸に帰って程なく、古河に嫁ぎ、翌年には男子を出産しましたが、産後の肥立ちが悪く、十九歳を一期として、この世を去りました。
ツルゲーネフの、あのジナイーダも同じ運命を迎えています。
歴史や風土も、勿論それらに育まれた人間も異なるわけですから恋も様々です。しかし、それを前提に考えても、なお二つの作品の間には埋められぬ懸隔があるように思います。嵯峨の舎の作品に、山里を背景として少年の清心さを描いている点に鮮やかさを感じるものの、近代文学として、特に深みのある作品とは思えません。それに対してツルゲーネフの作品は、少年を描き、女性を描き、時代を描いてもいます。やはり母なるロシア文学であったのでしょう。




□ 『逍遙の季節』(2009.9新潮社)に収められた七編の短編全ては芸道を希求する女性が描かれて、どれも読み応えがあります。
若くして素封家の別宅に抱えられた千津が、茶の湯を通してふれあう人々。そして掴みかけた愛の行方は?(『秋野』」)。生活を共にしながら画業に生きる女性ふたり・阿仁とさち。その愛と芸術の相克の日々の果てには?(『三冬三春』)。誰も紐を通さない根付彫りに思いを込める囲われの身の、深川の茶漬屋・女将ふさ。その出合いと別れ(『夏草雨』)。婚家に失望、子を残し実家を離れ、草木染の色合に魅せられた萌の愛は?(『秋草風』)。髪結の道に足を踏み入れ、貧しい父母弟妹を支える十六歳のすず。十六歳の胸に芽生えた変化は?(『細小群竹』)。藤間流大ざらいの栄えある大役を前に、恋と友情と芸に逍遙する新進の花道家・紗代乃。(『逍遙の季節』)。そして『竹夫人』(ちくふじん)の七編です。
全ての作品は、作家の諸芸への深い関心に支えられていて読者は多くの点で啓蒙されます。註解が必要と思われる語も多く、世話物の範疇でありながらも硬質な時代小説でした。この『竹夫人』も例外ではありません。石浜の祖母(澄)の独り暮らしを訪ねる孫娘(奈緒)。祖母とはいえ尋常のものとは少し違います。芸者であった澄は正妻ではなく、男の庇護のもとに暮らし、奈緒の父を産みます。男は、日本橋は肴問屋の老舗の主。妻を亡くして、跡取りも急死し、澄との子を迎えます。澄は子と別れ、男の請いを拒んで家庭には入らず、芸事に身を入れ、夏に訪れる男を待って、美しく老いています。諸芸をこなしますが、なかでも三味線の技は秀逸です。
祖母の影響で奈緒も三味線を習うようになり、やがて祖母の奏でる三味の音を所望し、兄弟子・幸二と共に石浜に出かけます。幸二は杵屋六三郎(長唄三味線の名跡)のもとで頭角を現し始めた男でした。幸二の語りに澄が合わせます。奈緒は「心地よく肌が粟立」ち、芸と芸で向き合う男と女のありようにうっとりするのでした。三人の語らいの後にも「確かな陶酔の余韻」……、奈緒は祖母のお蔭で幸二に近づいた気がするのでした。この夕暮れの掛合は澄の芸の深さと、寛いだ心の中の凜とした気品が表現されていて圧巻でした。
この澄のひととなりが、やがて登場する「鷺草」の佇まいと重なります。白鷺が長い首をつきだして飛翔する様が目に浮かびます。鷺草の魅力は、翼の先が繊細に断裂し、美しさをデフォルメしている点でしょうか。記念公園の「鷺草まつり」の撮影会では、真っ黒な背板を使って、その純白の姿や、翼の高貴さを際立たせようとします。その涼やかで、優雅で、気品のある花瓣。派手な形状であっても威圧感の微塵も感じられない可憐な花と言えましょう。澄が客を迎える縁側に何気なく配した一株の小花は、芸によって培われた主人公のありようを、タイトルと相俟って象徴している気がします。
「鷺草」は「歳時記」では夏、タイトルの「竹夫人」も夏。この竹製の添い寝道具は、作中には一度も姿を現しません。象徴的なタイトルですが、夏に石浜を訪れる男たちを気負いなく迎え、涼やかに明るい夏のひと時を共にする「澄」その人と重なります。やがて奈緒は、幸二との将来を強く意識するようになり、実家の反対をよそに、愛と芸に惑いながらも澄の言葉に頼ります。時は天保の改革の「倹約令」で、芸事が窮地に追い込まれてきています。幸二も旅興行の難局を余儀なくされますが、奈緒は、共に挑む覚悟をかためるのでした。
無風流な私の人生に悔いがあるとしたら、何の技芸も身につけなかったことでしょう。節くれた指の職人さんの一徹な人生や、己が創作した作品と寸分違わぬ顔を持った人生に憧れる所以です。






□ 『五郎治殿御始末』(2003.1中央公論社)は非常にユニークな短編集です。表題作を含め六編の作品全てが、幕臣たちの明治維新後の物語です。単行本の表紙カバー(写真)の装画は日本画家の中島千波画伯が担当されています。この椿の花は巻頭の『椿寺まで』のクライマックスを、その凄まじい存在力で飾ります。氏の作品に銭湯の坪庭の椿が、夫婦の生活の原点への郷愁を呼び覚ます実にほのぼのとした『姫椿』(1999.2オール読物)がありますが、同じ椿でも花の趣も全く異なります。
この短編集には実は私なりの思い出があります。六、七年前の、臆することなく言葉を発せた頃のことです。淺田次郎氏は執筆の際、「声に出して読みながら書く」という御本人の言葉を耳にし、妙に納得させられ「この短編集は自分の声で自分に読み聞かせよう」と決め込み、毎夜、実践し、幾晩か費やして読み切ったことがあります。声を出すことに心を集中すると読み手にも、自然と伝わってくるものがありました。
どの作品も御一新の世に野に放たれた徳川武士の、不遇なりとも誇らかで、誠に満ちた生き方が、氏独特のペーソスにくるまれて描かれていました。この『椿寺まで』は、日本橋の大店の主・江戸屋小兵衛が丁稚・新太を伴って甲州街道を下る旅を通して二人の「謎」が解かれていく趣向です。
主従は得意先を回って、布田宿に向かいます。高井戸を過ぎて、二人組の追い剥ぎに狙われますが、小兵衛が胆のすわった対処をし、新太を驚かせるばかりか、読者も小兵衛の剛胆ぶりに、謎を感じます。二人は布田宿の旅籠に宿をとります。飯盛女の幕府への揶揄に、小兵衛は笑顔を閉ざすのでした。初めて湯屋を共にした新太は、主の背の醜い傷跡に目を瞠ります。背中を流させながら、小兵衛は「おめえを伴にしたのにァ、のっぴきならねえわけがあるのさ」と、何やら新太に関わる謎も仄めかされます。
翌日、布田から府中の宿場に入ります。近郊の私のような読者は馴染みの深い多摩の土地が小説への親しみを増します。欅並木を過ぎて高札場のあった札の辻の飯屋の暖簾をくぐります。「声に出して読みながら書く」氏の方法の第一の効果は会話の中の俗語の響きが生きていること、そして第二の効果は、会話からの転換の叙述が見事な間を生み、状況の提示と新たな転換を、これもまた見事に果たしていることです。この飯屋で小兵衛への謎は氷解していきます。言動の節々に、維新の主導権を握る薩長への反骨が窺えてきたのです。
札の辻を過ぎ、二人は更に歩を進めます。まだ日は高く、八王子までの道のりには充分でしたが、小兵衛は日野宿泊まりを告げます。「寄り道」としか告げませんが、「寄り道」どころか、此処で、全ての謎が解かれ、椿の古木、大輪の椿の花と共に読者の心に刻まれる「椿寺」となります。
多摩川を渡って、街道を南に折れて浅川の堤に出ます。多摩川の渡し場は全域で45箇所あったということです。この近辺でも日野の渡し、柴崎の渡しなど数多くの渡し場跡が確認されています。ここでは土橋を渡って、二人は浅川の万願寺の渡から対岸に出ます。目と鼻の先には『輪違屋糸里』の土方歳三菩提寺・高幡不動尊金剛寺。元気な折、この辺りを散策したこともあります。たった数年前のことです。水車を眺めて向島用水路を散策し、浅川の堤に腰を下ろして、美しいふれあい橋や、浅瀬に戯れる子供たちを眺めたりもしたものです。おそらく、この地にお住まいの淺田氏の土地勘は、そんな私など及ぶべくもないでしょう。
椿寺と呼ばれる名所は全国各地にあるようです。京都の地蔵院は、秀吉が朝鮮から持ち帰ったという花瓣が一片一片落ちる「散り椿」だそうです。また熱海の椿寺は250種・千本の椿で名を馳せています。写真で拝見しただけですが、夥しい「落ち椿」は、まさしく紅の海で、まるで別世界です。しかし多摩近辺に「椿寺」はなく、作中の「椿寺」はおそらくフィクションと思われます。(元気になったら自分の足と目で確かめたいものです)……作中の「椿の森」とか「天蓋の椿」という表現は、そうした実在の椿寺のイメージを遙かに圧倒する舞台を創っています。
「お不動様の伽藍を巻くよう」に登ると「いつの間にか赤い花を散らした椿の森」でした。椿の「大木」とも、「大輪の花」ともあります。山門を潜ると「一面の椿の庭」、「苔の上のそこかしこに、真紅の花」、「椿の厚い葉に被われているせいで、あたりはたそがれのように暗い」。小兵衛は玄関先の「ひときわ大きな椿」の下で待つよう、新太に指示し、庵主のもとへと立ち去ります。
残された新太は「天蓋の椿」の下。傍に寺男がいます。寺男は問わず語りに語ります。新太の父が「勝沼の戦」で討死にしたこと、天下の旗本であった小兵衛は戦を続け、総攻めで「膾みてえに切り刻まれ」たこと。「傷の癒えぬ」体を曳きずり、 深川の屋敷を訪ね、自害寸前の新太の母親を「血の涙」を流して諫め、新太とともに救ったこと……などを。
全ての謎はとけました。御一新により野に下りながらも、新しい世への反骨を秘して、自らへの矜恃を抱え生きる小兵衛の凄絶な過去だったのです。そして一石橋(いっこくばし・日本橋)に捨てられていたという新太が、この旅に同行させられた「のっぴきならぬわけ」も明らかになりました。尼僧に姿を変えた母が、眠ったふりの新太の頬の涙を拭うのでした。深川の屋敷に仕えていた寺男の「男ってえのは、耐えるだけ耐えたそのしめえにァ、真赤な血の涙を流すもの」という言葉が、新太の耳をかすめます。母の指先が赤く染まっていないか目を瞠るのでした。
全ては「椿の森」の中、「天蓋の椿」の下での謎解きでした。辺りの苔の緑には、真っ赤な落ち椿が散り敷かれていたはずです。






□ドイツ文学に「ビルドゥングスロマン」というカテゴリーがあります。「教養小説」あるいは「発展小説」と呼ばれ、日本の近代文学では漱石の『三四郎』や鴎外の『青年』、更には下村湖人の『次郎物語』や山本有三の『路傍の石』がこれに当たると言われています。しかし『三四郎』は三部作を通して、その特性を顕著に表すと言えるでしょうが、『青年』は『三四郎』に示唆を受け、ものされた作品で、単独の作品では、その要件を充分には適えているものと思えません。その点、『次郎物語』や『路傍の石』は「幼年期から成年にかけて主人公の教養形成過程を描く」意図が、明瞭に窺えます。
昔のことで記憶も定かではありませんが、小学校の高学年の頃、学校の映画教室で、この二作品を鑑賞したことが思い出されます。中学生の頃に湖人の著作から章句を見つけて座右の銘にして、自己を叱咤することもありました。意志薄弱で、反省しきりの少年の頃でしたが、その時なりに求めるものがありました。
『三四郎』は、熊本から上京した主人公が様々な人々との出合い、戸惑いの中に自我を見つめていく過程を描いた作品です。同じ状況下の美男の小泉純一(『青年』・鴎外)と比べるまでもなく、小川三四郎は共通項を持つ故の親しみ易さがあり、長い間、若者の知的生活の案内役でもあった気がします。また登場人物を通して語られる近代文明・社会などへの批評的言辞は、『社会と自分』(大正2年・実業之日本社)所収の幾つかの講演と重なる部分も多く、漱石文学の魅力として、作品を支えていると思われます。
故郷・熊本から新しい世界へ、三四郎は汽車でゆっくりと移動します。既に故郷で育まれた彼の自我は揺さぶられ始めます。名古屋で同宿を余儀なくされた女性、故郷では聞いたことのない度肝をぬいた話をする教師風の男。――冒頭の車中の場面は序章として実に見事に描かれて、伏線として物語の展開を暗示しています。彼を待ち構えていたのは全く新しい知的環境で、故郷の「月見草ばかり生えている運動場」で寝そべり味わった「全く世の中を忘れた気」とは全く異なり、大学の心字池の傍らに腰を下ろし物思う三四郎には、石橋を渡り近づいてきた女性が手にした「真っ白な薔薇」が妙に心に残ります。二つの花が、二つの世界を暗示するように思えてなりません。
やがて同郷の先輩・野々宮宗八を基点に、その妹よし子、広田先生と寄宿する佐々木与次郎、そして美禰子を知り、新しい三四郎の世界を形成していきます。異なる場所で出合う人が、みな絡み合っていく偶然性は、この作品の通俗的な側面を成し、親しみやすさに結びついていきます。これらの人々が一堂に会して団子坂の菊人形に出かけます。先に触れた月見草や薔薇のほか萩・枳殻・百日紅など多くの花々が登場しますが、『三四郎』と言えば、やはり、この場面が印象に残ります。広田先生の家に集まった彼らは与次郎一人を残し、団子坂に出かけます。作品のプロットに具体的な一本の流れがあるとすれば、当然、惹かれながら戸惑い、立ち尽くす三四郎の美禰子への思慕の情と、それを翻弄するかのような美禰子像の交錯にあると言えるでしょう。
池の端での白い薔薇の花、よし子の見舞いに病院を訪れた折の薄い色のリボン、広田先生の引越の際の白い前垂れ……。美禰子との距離は確実に縮まっていきます。それが、この菊人形見物では美禰子の発した言葉そのものが、初めて二人の心に余波として残ります。以後への分岐点となったのです。
当時の菊人形は大変な賑わいであったらしく、『明治東京歳時記』(槌田満文編・青蛙房・昭51)に拠れば「もっとも評判の高い菊人形」が、団子坂のそれで、明治七、八年頃から「木戸銭を取って客に見せるようになった」そうです。その最盛期の様子は『浮雲』(二葉亭四迷)にも描写されています。一行は、菊の着物を纏う曽我兄弟を眺めて雑踏の中を流されていきます。そんな中、喧噪に酔ったかのように美禰子が振り返りつつ一行を離れます。三四郎も後を追います。美禰子は真っ赤な唐辛子を吊した藁屋根の見える草地に腰を下ろして、気遣う三四郎と、ぎこちなく言葉を交わします。美禰子は「迷える子(ストレイシープ)」と一言漏らします。この言葉を契機に二人の心理に互いの重みが加わったように見えます。「straysheep」、二人のみならず、読者の身にとっても気がかりな心の底に淀む言葉となります。
恋愛小説の様相を呈しても、三四郎は、恋の罠にはまる程、大胆でも向こう見ずでもありません。郷里と学問と恋愛、この「三つの世界」を新しい知的世界の土壌で培養していこうという真摯さが伝わってきます。ここに「ビルドゥングスロマン」の特性を感じるのです。
大学入学の当初、講義を終えて駅に向かう私を呼びとめたM君、彼は義兄の教え子でした。授業後の教室を整理する私に柔和な笑顔で声をかけてくれたY君、彼は或る宗教へ信仰心を傾けていました。予期せず訪れる親交の機会に、感謝の念を今更に感ずるのです。私が彼らに与えたものがあるとすれば僅少にすぎなく、私は多くのものを彼らからいただきました。些かなりとも、その後の私に発展があるとすれば、それは彼らに負う処が多かったのではと、つくづく思うのです。






□ ポツダム宣言受諾後、宮本百合子の新生日本の第一声は『歌声よ、おこれ』(1946・「新日本文学」)という短い評論でした。同年に『播州平野』(「新日本文学」)、『風知草』(「文芸春秋」)と相次いで発表された小説も、新しい時代を予感させる力に漲っています。この二編は『細雪』(谷崎潤一郎)、『自叙伝』(河上肇)と並んで、「第一回毎日出版文化賞」(1947)に輝いています。
『播州平野』の石田ひろこ(百合子)は、東北の疎開地で終戦を迎え、治安維持法下、獄中の人となっている夫の重吉(顕治)の解放を期待します。巣鴨から網走まで、重吉の獄窓の生活は十二年に及びました。(その間、顕治・百合子の交情は『十二年の手紙』全三巻・1950~52・筑摩書房)に明らかです)。待望の夫解放の新聞記事に接したのは、故在って赴いていた重吉の故郷山口(光井村・現在の光市)でした。急遽、帰京の途に上りますが、戦後の混乱時の移動の困難は想像を絶します。車窓から乗り込んだ列車も目的地には辿り着かず、トラックの荷台を乗り継ぎ、時には荷車に支えられて歩きます。そんな流浪に似た旅の末、やっと旅の目途が立ったのは明石への帰り車の荷馬車でした。……「国道の両側に、すき透るような秋の西日に照らされてのびやかな播州平野」「かたりことりと東に向」かうひろ子は、心に満ち溢れる様々な思いを胸に揺られていきます。……
心地よい轍の音とともに、荷馬車が播州平野を行くラストシーンに明るい未来が予測されます。この作品の後日譚とも言える『風知草』にも、同様の趣を感じます。
「一組の夫婦の一九四五年の秋から冬にかけてを描いた」「一編のクロッキー」(文芸春秋版解説)と、作者自ら語ります。しかし描かれた現実が、時折苦闘や忍従に満ちた時間を覚醒させます。爽やかな風知草の一鉢も、そんな役割を担っています。
解放された彼らの活動の歯車がゆっくりと回転し始めた1945年の初冬。机に向かって執筆をする重吉の傍らで、清書をするひろ子。静かで、明るい充実した思いを味わいます。奥の三畳間の壁際に片付けてある、埃をかぶった「折りたたみ寝台」を見やり、ひろ子は思い出すのです。1941年夏(百合子は前年十二月太平洋戦争勃発の翌日より拘置、翌年三月巣鴨拘置所、七月に熱射病のため執行停止、出獄)、西日の眩しい、暑気に燃える部屋。文筆上の仕事が封鎖され、心も「窒息しかかっていた」ひろ子は、或る晩「駅前の通りへふらりと出」、葭簀張りの植木屋に並んでいた風知草の鉢の清々しさに、異常な喜びを感じ、「亢奮した気持ち」で求めたのでした。しかし、さして手間のかからぬ風知草さえも、「夏の乾きあがった生活」に捲き込まれて枯れてしまいます。ひろ子の記憶は、巣鴨の拘置所の房に置かれたそよともしない風知草にも及びます。爽やかな筈の二鉢の風知草は、ここでは苦渋の記憶として蘇るのです。
十二年の間、「彼を積極的に生かそうとする意志が一つもない環境の中で、猩紅熱から腸結核、チフスと患って、死と抵抗して来た」重吉の病状の診断をひろ子は親友の医師・吉岡に委ねました。秋の日の午後、武蔵野の雑木林に囲まれた研究所。作品は、長閑な、ここの一室から始まります。
診察を終えて「秋の夕暮れのかすかな靄のたちのぼりはじめた雑木林」を二人は駅まで手を繋いで歩きます。「このあたりまえさが、自分たちにとってあたりまえになったという」喜びが、重吉の胸に込み上げるようでした。帰りの電車の中で、重吉は『一塊の土』(芥川龍之介1924・「新潮」)に触れて、ひろ子の「後家のがんばり」を指摘します。この作品は、「後家のがんばり」が周囲に巻き起こした波紋を描いた芥川には珍しい農村小説ですが、この一言にひろ子の心に微妙に反応します。
「人生のずれたところへ力瘤を入れて、わきめもふらない女の哀れな憎々しさ」が感じられ「貞女や烈婦には決してなるまい」と生きてきたひろ子には、心に重くのしかかる言葉でした。
代々木には「赤旗編輯局」の表札が掲げられ、重吉の外出も規則的になり、パンフレット型の「赤旗」も出版されました。彼らの活動も活況を呈していきます。国分寺の「自立会」には「予防拘禁所」の同志も、また四方からも人が集まります。
1945年の冬は「日本の民主主義の無邪気な発足の姿だった」と記すように、「衆目の前」の初めての党大会が開催され、様々な「大衆的集会」も活況であったと言います。大会前の木枯らしの吹く午後、ひろ子は若い婦人達が集う講堂で映画を見ていました。スクリーンに映し出される映画「治安維持法と、その非道な所業、その法律の撤廃」のシーンがひろ子に深い感興を呼び覚まします。読者としても、その感興を共有出来た思いがあります。解き放たれ、獄を出る人たちの「ザッザッ、ザッザッ」と力強く、「高鳴る足音」は、先にも触れた播州平野を行く荷馬車の轍の明るい音と呼応するかのようです。
私のような行きずりの読者には『花ざかりの森』(1941年・三島由紀夫)や『十六歳の日記』(1925年・川端康成)にも劣らない早熟の作品『貧しき人々の群』(1916年・原型「農村」は百合子16歳)も、また「共産主義への開眼」前の自伝『伸子』(1924年)にも、イデオロギーや党是とは次元の異なる自己の信念への殉教的態度が、清々しい人間ドラマとして感じられるのでした。

