日本庭園 - やはり秋の庭園がお好きですか?それとも・・・・・・




静寂に包まれた異質な空間が、公園の中で独特の魅力となっています。ここは遊ぶ空間でなく、訪れる人が観て、味わい、感じる空間、すなわち「庭園」そのものなのです。門前に野良猫が待ち構えていることはあっても、ここはペットを同伴してはいけない場所。
季節の移ろいごとに池の水面に映る空や雲、周囲の樹々の色合い、池畔に咲く野の花の姿はそれぞれ異なるものの、やはりもっとも心魅かれるのは「秋」なのでしょうか?鮮やかな紅葉が澄んだ大気の中で「水鏡」に映える佇まいは、人々の目をもっとも楽しませてくれる季節です。
梅、牡丹、菖蒲に、椿、躑躅、紫陽花。廻遊する足下にホタルブクロや石蕗の黄色い花も目にやきつけられます。池の周囲に点在する数寄屋作りの四阿が、心和む落ち着いた気配を醸し出しています。しかし秋には、とりわけ目を引く花は見あたりません。ひっそりとした桔梗などが路傍に控えています。そのかわり、紅葉の燃えるような色合いが青い空に映え、水鏡に映る秋は全てが美しく調和が感じられます。
昨春、立川市の高松学習館主催で「国営昭和 記念公園の魅力 100倍楽しめる秘密を あなただけに!!」という企画(定員25 名)がありました。講師は財団のセンター長をされている椎名 豊勝氏で、私もホームページのための何か楽しい情報はないかと期待し応募しました が、体調の悪化から、妻がメモを片手に代わりに参加してくれました。日頃か ら情報吸収力は強く、逆に情報選別力には少々欠けたところのある妻は、帰っ てからメモを見ながら、あれこれ熱心に語り始めます。せっかくなので、その 中の情報もふまえて「日本庭園」への思いを綴ってみたいと思います。
訪れる人の多い秋には、「歓楓亭」でお茶を楽しまれる方も多いようです。『この歓楓亭は欄間にも楓の透かし彫りが施されて、紅葉の美を代表する楓へのこだわりを感じさせてくれる』――と妻が言います。建築物のディテールの部分の指摘だけに、私も少々聞き耳を立てました。全く意識の外の事柄だったからです。日頃の独りの散策で、ここで一服頂戴するなどという習慣は私にはありません。妻は多少の茶道の心得があるので、歓楓亭の説明に熱心に耳をかたむけたのかもしれません。日野市の建築家・酒井哲氏のホームページに、<日本庭園>の四阿「清池軒」と厠にしぼった建築学的説明も観てみましたが、歓楓亭には触れていません。その後の散策で妻の情報を確かめながらお抹茶をいただき、「なるほど」と思いながら何枚か写真を撮りました。しかし、奥座敷にあがることは憚れるので、この探訪はまだ不完全です。
池向こうから歓楓亭を眺めると、竹林を背景に大きな広がりを持った立派な数寄屋作りの建物。生け垣に特色があるのは気がついていました。妻は「交ぜ垣」という言葉をメモしていました。「籬垣(まがき)」なら古典作品にも登場しますが、それは歓楓亭の長く一直線に伸びた垣根が緑と赤く色づいた部分が交互に並んでいる美しさとは全く違う意味となってしまいます。妻は電子辞書を開いて私に見せます。「交ぜ垣・混ぜ垣」、「大辞林」には「多種類の植物を用いて造った生け垣」とあります。確かに、このことも<日本庭園>の魅力の一つであると感じていたことでしたが、私の知らない言葉でした。一つ言葉を覚えました。
更に妻は完成年月や総工費まで、私のさして興味を感じないことまでメモしてきた数字を見ながら話してくれますが、その中に「水鏡」という言葉がありました。もちろん〔水鳥の池〕にも、稀に見せる〔地底の泉〕にも同様の美しさを感じます。「冬の水一枝の影も欺かず」(中村草田男)の澄んだ世界が、そこにあります。
昨秋、同企画の第二弾「晩秋を楽しむ」が二日間にわたって開催されました。
一日目は「花とみどりの文化センター」で、センター長の西川清氏、企画課長補佐の平塚靖司氏の講座。二日目は西立川口に集合し、晩秋を楽しむ散策でした。念のため妻にサポート役を頼んで私も参加しました。この企画のおかげで、〔日本庭園〕では、今まで木戸が堅く閉ざされていたエリアに足を踏み入れることが出来ました。歓楓亭奥の茶庭の蹲いに水琴窟が拵えられていたのです。参加者はみな身を屈めて、耳をそばだてていました。
銘木ぞろいの「盆栽園」も賑わいをみせます。盆栽もまた秋には赤や黄と色づきながら古木の風情を醸しています。園芸には多少の興味を感じている私ですが、盆栽は、時々ここに足を踏み入れて気の遠くなるような盆栽家の丹精や木々の生命力に圧倒されることで、もう充分です。
ある日の散策のことです。四阿・昌陽に向かって木橋を渡ると、途中に四、五人のご婦人が立ち止まって池の面を指さしています。指さしているのは丈の低い松が植えられた小島でした。「手も足もある。首も」と言っています。うかつなことに、何度も見ている私の目には、今までに一度も亀の姿を捉えたことがありません。先入観にとらわれすぎたり、柔軟な感覚に不足してきた自分に不思議な感覚を覚えました。
紅葉の季節がいつの間にか過ぎて、冬支度が始まります。郊外といっても都心からそう遠くないこの地に大雪は稀です。雪吊りをあしらうのも庭園の観賞を高めます。雪景色を眺めたくて何度か足を運びました。雪景色に、常々感じていたことは、木々の枝振りであるとか、雪に覆われてもなお残すそのものの色合い。雪の白さによって極立つ、水墨画のような黒の美しさだということです。しかし都会の風景の中では、こうした感慨を味わう機会も喪われてきたようです。
春には春の色になります。梅の香に誘われて多くの人が門を潜ってからは、新緑とともに牡丹が咲き、池畔にも明るい色合いが目につきます。廻遊しながら思わず道端の野の花にも目がとまります。やがて梅雨時になると、木橋の左手に菖蒲田が拡がり、渡り板をぬって、その艶やかな振り袖のような花を間近に楽しめます。〔水鳥の池〕の東隅にも蒲生などを植え込んだ浅瀬で和の雰囲気を演出した一郭があり、そこでも睡蓮や菖蒲が楽しめます。このエリアには小さな魚が生棲し、運に恵まれれば、カワセミが小魚めがけて水面にダイビングする瞬間を目にすることが出来ますが、今ひとつ周囲の池に調和が感じられません。その点、ここの菖蒲田は、広さもほどよく<日本庭園>の雰囲気を高め、何よりも調和が感じられます。圧倒されるような花の 量感は、ここでは期待してはいけないのではと思います。
菖蒲田の傍らの池の水面に目をやると、睡蓮がひっそりと、しかも神々しく輝いています。「睡蓮」という と、若い頃に愛読した或る作家の作品を今でも忘れられません。やはり「睡蓮」(昭和15年・「文藝春秋」)という題名の短編です。高台の平坦な土地に家を構えた作家が、折しげく睦まじく散策する若い夫婦を目にするようになり、二人に特別な光がさしているように感じて幸福な気持ちに浸ります。やがて夫は陸軍刑務所の看守で、高潔な剣士であることも分かってきます。しかし夫は電車にはねられ不慮の死を遂げます。夫の香典返しに届けられた一冊の歌集。作家は日頃それとなく感じてきた夫の為人を、歌によって偲びます。中に、「移されしさまにも見えずわが池の白き睡蓮けさ咲きにけり」があります。「移されし」とは文字通り刑務所の池に移植されたということですが、人の振る舞いとしては環境や境遇によって卑屈になったり、威丈高になったりして自分が変わってしまうことです。本来持つ自分らしさ こそ、美しい。遺された歌に共感しながら故人の人柄に迫る作家・横光利一の感性もまた美しい。(「小説の中の花」で再び、この作品に触れたいと思います)
真夏の暑い陽射しの中では訪れる人も少なくなりますが、それでも公園の奥座敷にあたる「日本庭園」に憩いのひとときを持つ方に出合います。四阿や池畔のベンチに腰をかけ、池の水面を眺めて涼をとられている方もいらっしゃいます。この時期には〔花木園〕などにも汗を流して働く方の姿を目にします。私の家の狭い庭の植栽や鉢物の手入れさえ、私が声をかけ、妻が鋏やスコップを手にしてくれます。もともと、こうした作業が好きな私が、始めると夢中になって妻にとめられることもあったのですが・・・・・・。好きなだけに造園会社の方達や植木職人さんのお仕事の場面に、日常の散歩で遭遇すると、失礼ながらついついカメラを向けてしまいます。こうした方々のお仕事があって、やがてまた、様々な色に変化した木々が、空や雲とともに「水鏡」に静かにくっきりと浮かぶ秋が訪れるのです。
