私の昭和記念公園

めぐみ - その日の思い出は落ち葉の栞ですか?、それとも団栗ですか?

 〔カナール〕沿いの〔かたらいの道〕には公孫樹並木が続きます。木陰の道が、訪れる人を〔ふれあい広場〕へと導きます。道は広く、語らう人たちを更に公園の中心部に誘います。ここまでの空間は西洋庭園風の趣で、公孫樹の背丈も低く均一に刈り込まれ(旧立川基地の滑走路との関連という歴史的な理由があったようですが)、直線的です。噴水の中央のブロンズ像「明日の空へ」が、カナールの佇まいと調和し、いっぱいに広がった大空を見上げています。

 ここの紅葉も美しいのですが、〔いちょう橋〕につながる「全長300M」に及ぶ並木は、全く趣が異なり、樹木は刈り込みも少なく、自然な感じがします。しかし、どちらも季節には枝もたわわに銀杏の実をつけます。まるで葡萄の房のように密集している様子に驚いて思わず撮ってしまいました。

 園内の洗面所には「ここで銀杏を洗わないでください」などと貼り紙があります。銀杏特有の臭い故にマナーは守りたいもの。かつては財団主催の「ぎんなんをひろおう」というイベントが行われ、たくさんの家族連れが参加し、ビニール袋を片手に、われ先にと争って楽しんだそうです。

 日だまりのなか、親子そろって手袋にビニール袋、きっとこういう準備万端な方はマナーもきちんと守っていらっしゃるのでしょう。失礼ながら思わずカメラを向けてしまいました。美味しい茶碗蒸しが食卓にそえられるのでしょうか。

 2007年10月、武蔵野の農村を再現した「こもれびの里」がオープンしました。開墾から5年、ボランティアの方達の大地との地道な触れ合いを通して「めぐみ」がもたらされます。秋には稲刈りやイモ掘りなどのイベントが催されます。小学生の体験学習にも活用出来るのではないでしょうか。水車小屋の背後の斜面には、花梨が見事に実をつけ、柘榴がぱっくりと真っ赤な口をあけていました。

 公園内で植物の採取が禁じられているのはここに限りません。枝々や蔓に手を伸ばして、その実をいただくのもマナー違反でしょう。巡回されている公園職員の方が何人かのご婦人グループに注意、反論されて説明している場面もお見受けしました。しかし風雨にさらされて地に落ちた実は、訪れる人にとっては自然の恵みです。銀杏もさることながら、様々なドングリや松ぼっくり、落葉した色づいた葉さえも、心和む思い出となります。若いお母さんが小さなお子さんとドングリ拾いをしている光景も見うけます。忙しいお母さんも、こうした時間を大切にしてほしいもの、と願うような気持ちになります。

 ここに書くことを躊躇ってしまいますが、先日の散歩の折、こんな場面に出合いました。四人のご家族がサイクリングロード脇に自転車を駐めて、〔川沿いの散歩道〕に入ってきました。若いお父さんお母さんが、お二人のお子様と一緒に松ぼっくりを、ビニール袋いっぱいに集めていました。ところが、お父さんは長い棒を手にして枝々の先端を叩いていたのです。落ちた松ぼっくりを子供たちが夢中で拾い集めます。クリスマスの飾りか、子供の工作か、利用の仕方は予測できますが、子供を前にしたご両親の、この振る舞いは理解出来ませんでした。こうしたことが平気に出来る心の物差しを、子供たちが持ってしまったら困ったことです。嫌な散歩でした。

 散歩中、時折、私の前をお母さんに手を引かれて、元気いっぱい歩いている幼児に出合います。「後ろからならよろしいでしょう」と、勝手にお許しを得て、その微笑ましい姿をカメラにおさめます。こういう母子の姿に遭遇するのも、私の場合、心を和ませてくれる「めぐみ」かもしれません。「頑張りなさいよ!」と心の中で幼児に声をかけ、「優しくね!」と心の中で母親の背中に声をかけます。

 〔こどもの森〕の「森の家」では木の実を使って創作する教室もあるようです。森の活動の重要な教材になっています。窓から教室を覗いてみると、ガラス戸越しに、いっぱいのドングリがみえました。実は私も時々、ドングリや松ぼっくりをポケットに入れて帰ることがあります。コナラなのかクヌギなのかシイなのか分からない私ですが、辛い姿勢で幾つかポケットにいれます。身を屈めたり不自然な体勢をとると時に痛みを感じるので、少々怖いのです。松ぽっくりも樹木によって多様な形があって判別できませんが、目が合った松ぼっくりを家に連れて帰ります。

 「昔は食べたもんだ」という先輩にかつてご馳走になったこともあるドングリは孫の「おままごと」の食材に、そして松ぼっくりはクリスマス近くになると、女房が玄関の下駄箱の上を飾ります。

 この夏(2009)、橡の木の並木道を歩いていると、踏みしだかれた実にまざって、殻の割れ目から栗のような艶やかな種子をのぞかせているのを二つ三つ拾いました。立秋を過ぎたといっても、まだ萩の便りにも早いのに、葉が黄褐色に色づくのも木の実が熟れるのも早い。ゆく夏の思い出に家に持ち帰って、これも玄関に飾ったり、写真に撮り、季節の便りにも使わせてもらったりしました。

 自然のめぐみとして、一日の思い出として、大地の上で私たちを待ってくれている、と考えてよいでしょうか。

 大地のめぐみ、自然が私たちに与えてくれる「めぐみ」は、こうした形あるものばかりではありません。歩いているだけの私にも、ハーブ園で目にしたポリジの淡いブルーの輝きに、日本庭園にすすむ道々、雪柳の小さな花々の大きな波のような真っ白なうねりに、思わず足を止めて佇むのは、驚きがあるからです。新しい発見があるからです。私に多少なりとも絵心があったり、もう少し粘り強く対象を見つめたり、季節を感じ句を案じる感覚を持ち合わせていたら、私の散歩も違ったものになったかもしれません。

 私には四人の姉がいます。一番上の姉は米寿を迎えます。みな年相応に病気を抱えていますが、若々しく活動的です。還暦を過ぎたばかりの末っ子の私が羨むほどです。中の二人の姉と嫂と義兄は、ある句誌の同人となったり、投句したりしています。四人の中に先達は、以前から「書」や「水彩画」の勉強会に参加し、師に教えを仰ぎ、今は句作に意欲的な久子姉が、その役割を担っています。お仲間と一緒の吟行も年中行事であるようです。(右の写真は、その姉の水彩画をポストカードに作ったものです。)八十路を越えて、なお若々しいのは教養を求めている姿勢からでしょう。

 先日、久々に公園に出かけました。〔もみじ橋〕あたりで、ゆっくりと先を歩くグループの中に、聞き覚えのある声を耳にしました。姉たちでした。勢揃いでした。それぞれに手帳を手にしています。お仲間たちとの吟行でした。立ち話をして別れましたが、姉たちはその日、公園の木々や花々に、それら自然を包んでいる大気の中に、どんな驚きを感じたのでしょう。どんな感覚が触発され、十七音に実を結んだのでしょう。こうして得た作品、それが詩歌でも絵画でも写真でも、やはり朽ちない貴い「めぐみ」であろうかと思います。その日のことを詠んだのでは?と思います。幼い頃の私を、母にかわって面倒をみてくれた三女の喜美子姉の句。

吟行の姉妹連れ立ち園小春喜美子

 今回、HPの更新にあたって思うところあり、「昭和記念公園」で得た句を紹介させていただきたい、とお願いしたところ姉たち皆、快く承諾してくれて、久子姉がとりまとめてくれました。私の今まで撮りためた写真の中からそれぞれの句に似合ったものをとりだして、一句を紹介させていただきました。姉たちの寄せてくれた句は、数句から十句ほど。みな昭和記念公園の、ある季節の空気と姉たちの心の向かい先が驚きとともに感じられます。割愛するのも忍びないのですが、二句ずつ挙げておきたいと思います。

四阿に一服のお茶萩ゆるる
 
銀杏を背負程とれしと広げけり 久子
 
車椅子に付き添う妻や秋桜  
紅白のコスモス美しく波立てて 新平
 
ふれあい橋おとぎ電車の園小春  
パンジーの落ち葉の中に色競い 喜美子
 
連凧や天を突きつき舞い上る  
コスモスがやさしく揺れる丘の道 延子

◇ 飯桐の……季節が深まり公園のあちこちの飯桐の葉はふるい落とされ、句のように「真くれない」になった実が目を奪います。上を見上げて、鮮やかな色と葡萄の房のような形状を楽しみながら、公園の奥に歩を進めます。

◇ 夫婦鴨……水鳥の池の鴨や鯉も、餌を与える人がいるので人懐こいところがあります。池の端で覗くと寄ってきます。目の前に飛んでくる鴨を義兄はしばし見やっていたのでしょう。夫婦鴨と義兄らしく素直に断じています。

◇ 車座の……初句から春の明るい勢いが予想されます。盛り上がる一座が目に浮かびます。物言いのはっきりした清々しい嫂の姿が重なってくるような爽快さが残ります。「桜の園」にくり広げられる宴の賑わいが伝わってきます。

◇ 大広場……「ふれあい広場」のことか。剪定された廃材を使った造形の美が訪れる人を楽しませてくれます。若かりし頃の華道の経験を思い起こして懐かしく想われたのでしょう。「冬の園」にも何かあたたかいものを感じたのかもしれません。

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